katoreen101の日記

学校教育と授業研究・アートと猫と…あとはあれこれ

対話で出会いなおす 〜オープンダイアローグに学ぶ教師のためのツール考察②その2〜

実は、②-その1を書いた直後、オープンダイアローグジャパンのセミナーに足を運びました。

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私にとっては大変学びになったセミナーでした!

そこでの話や感じた事は、また後に述べるとして、一点、追記したいことがあります。

「オープンダイアローグ」自体は精神医療や臨床心理の領域の話です。

私がこのタイトルの中で書いている事は、あくまでも「オープンダイアローグに学ぶ」取組の一例に過ぎません。

セミナーの話の中には

「セオリー通り、全てやってはじめてオープンダイアローグと言える」

という事務局側の意見もあったのですが、そこのところはご容赦頂きたいと思います。

 

 

さて、さて、前回の続きです。

 

S先生は低学年の担任をしていて、クラスの子どもたちを私は知りません。

しかし、子どもの描いた絵があれば、子どもを語り合えるという事を私たちは知っていました。

 

今回鑑賞した絵は「ひみつのたまご」といいます。

自由にたまごを描き、それを割ったら広がる想像の世界を描くという、とても夢のある題材です。

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S先生は今年度からもった子どもたちやクラスの様子を話しながら、教室に案内してくれました。

廊下の掲示板に子どもたちの絵が貼ってある。色とりどりの卵からはじけた不思議な世界。

それらの前に立っただけで心が弾みます。

 

 

画用紙からはみ出すような大きなたまご。

水玉や花柄があったかと思うと、真っ青に塗りつぶされていたり。

そこから生まれてきたものたちの世界も吹っ飛んでる!

魔法使いや猫や恐竜、それらと遊んでいる自分や家族、友達。

馬の背中に乗って宇宙に行ったり、ジャングルやサバンナに駆け回ったり。

 

おもしろいなあ、たまごから地下鉄が生まれるなんて。そう言えばLくん、お父さんと地下鉄に乗ったって言ってたんですよ。きっと楽しかったんですね。

 

Kちゃんのこの絵、よく観たらこの牛、耳が3つありますよ、あ、真ん中のは耳じゃなくてツノ?あ、牛じゃなくてユニコーン?ファンタジーの世界で遊びまわってますね。

 

この絵、迫力がありますね、ほんと、動物に興味があるDちゃん、さすが。この頃何でも自信がついてきたみたい。このライオンも堂々としていますよね。

 

絵を語ることはその子を語ることです。

しっかり描き込まれている絵からはたくさんの声が聞こえてきます。

 

一方で
そうではない、気になる絵にもどうしても目が行きます。

そんな私の視線を見て、S先生の語りが始まりました。
 
この学年の子どもたちは、今まで出会ったことのないような、手のかかる子が多くて年度当初は手を焼いたんですよ。
 
話を落ち着いて聞けない、
作業も最後まで続かない、
集団で行動する時にはみ出してしまう、

授業中に離席してしまう事もしばしば。
 
学ぶことへの興味をどう持たせるか、日々悩んだんです。

 
私たちの目に留まるのも、そういった子どもたちが描いた作品でした。
 
たどたどしい線だったり、広すぎる余白だったり、
描かれているものがあまりにも細やかなサイズだったりしている作品です。

 

いわゆる造形的な技能という面では、とてもじゃないけど、いい評価はもらえないような絵です。
 
 
 
Fくんは進級した当初、全く落ち着きがなく、何かに集中できなかったんです。
この絵も何を描いたらいいかわからなかったようで、取りあえず、しま縞模様に順番に色を塗ったんですよ。

 
でも、よく見ると枠からはみ出さないよう、色も順番に変えて、気を付けたんだなあ、
 
ここは没頭してできたみたいですね。
がんばったんだなあって、思います。
 
Rくんはひときは幼い印象の子で、1年生の時は先生に注意される事も多かったようです。
 
私も、出会いの時はあまりのテンションの高さに…あぜん…
でも、面白い子で、たくさん笑わされましたよ

 
 悩んでいると言いながらも、子供との日常を基本ハッピーに過ごしているS先生は笑顔で話す。そう言いながらも、Rくんとの関わりは葛藤が多かったことに違いない。
気に入らない事があれば授業中でも大声を出したり、立ち歩いたり、友達に乱暴な事をするのもしばしば。言って聞かせても同じ事の繰り返し。やってみせたり、褒めたり叱ったり。
そんな中でも、一緒に遊んだり、笑ったりしてきた。
 
ほんとに、ほんっとに、面白い子なんです。是非あって欲しい、きっと好きになりますよ。


 
Rくんを語るS先生の顔は生き生きしていて、しかも優しいのです。
 
Rくんは、絵を描くのが嫌いだったんです。描きたくないって投げ出していた。みんなが自由に書いているのをみてちょっとずつやるようになってね、
 
この絵も卵にとてもこだわっていて。割れた卵から出て来るものを一つ、また一つと描いていくうちに結局、こんなにたくさん描いたんです。
 
やっぱり、描きたいものを描いてもいいって、大事なんですよね。
 
上手とか、そういう事でなく、こうやって着々と描いたこと、そうしてそれが作品として残ること、これって大事なことなんだと思います。
 
こうした経験が、絵を描くということだけじゃなくていろんな事を成長させていくんじゃないかって感じます

 
 
S先生の語りは続きます。

 

子どもの作品を横並びで眺めて、よくできたとかできていないとか、そんなことはいくらでも言えるけども、一人一人の子の世界を感じるためにはそんな事は全く関係ない。


絵の上手い下手ではなく、きちんと、ちゃんと描けたかどうかでもない。

子ども自身が着々と
 
子どもの表現を丸ごと受け取り、
普段からどんな作品を見る時にもやるように
 
自らの気持ちがその作品をくぐり抜けた時に、どんな子どもの内面が見えて来るだろうか。

 

この対話を終えた夜、S先生から次のようなメールをもらいました。

 

今日はありがとうございました、作品みて話をしてると、私も癒されました。

頑張ってるんだよな、子どもは!と改めてしんみり。

頑張ってない子なんていないんだよな、ってしんみり

 

毎日子どもを優しいまなざしで見つめているS先生。

その先生が、子どもたちに対してまた一歩深い想いを抱いたことを、しんみりという言葉で語っていました。

S先生の中で「新たな理解」が生まれていました。

 

オープンダイアローグは精神医療の治療において、当事者を含めて関係者たちがチームになって対話を重ねます。

 

それに対して、この話は私とS先生との2人での対話です。

しかし、子どもの作品を真ん中に置いて語る事で、子どもたちの声が賑やかに聞こえてくるのです。

作品を媒介にする事でとても豊かなポリフォニーの世界へと広がっていくのでした。

 

 

 

対話で出会いなおす 〜オープンダイアローグに学ぶ教師のためのツール考察②その1〜

前回の記事では

 

オープンダイアローグに学ぶ対話の本質
1、«体験している世界»を内側から感じる
2、«多様な声»が生じる場にする
3、«新たな理解»を一緒に生み出す
 

そんな場が学校の中に、

いつでも用意されている=日常に散りばめられている事の大切さについて提案しました。

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立ち話だったり、井戸端会議のようであったり。

いつもの風景になっていくこと。

つまり回数を増やしていくということです。

 

今回は、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。

ダイアローグの質についてです。

 

どこまで深く«体験している世界»に迫ることができたのだろうか。

«多様な声»をどれだけ織りかさねられたのだろうか。

«新たな理解»は自身の心を真に揺り動かすものだっただろうか。

 

 

質を高めるために「こうすればいい。」ということを私は何も語れません。

 

ただ、対話を終えた後に「今までとは確実に、語り合った世界の見え方が変わった。」と感じることはありました。そういう時は自分だけではなく、対話のパートナーも同じ感覚をもつようです。

とても強く感じる事もあれば、細やかに感じる事もあったように感じます。

 

うまく言えないのですが、その辺にダイアローグの質の物差しがあるのかもしれません。

 

そんなことを考えている時に、ある先生との対話を思いだしました。

 

2年前まで同僚だったS先生との対話です。

私たちは2人とも造形教育に携わっていて、子どもたちが描いた絵を観るのが大好き。

しばしば子供の絵を見ながら語り合っていました。

 

私も子どもたちのことはよく知っていたので、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、楽しい時間を過ごしたものでした。

たどたどしい描線や自信なさげな柔らかいタッチ。

乱雑で取り留めもないけれど、何となくユーモラスなモチーフ。

 

私たちの対話では「上手い」「下手」とかいう話は一切出てきません。

 

一人ひとりの表現を丸ごと受け止めて、その子の想いを追体験しようと対話を重ねました。

 

すると、子どものことを話しているのに、いつの間にか自分の心が耕されて、癒されていくのです。

さらに、S先生は、担任としても子どもの見方が広がってきたと感じているようでした。

 

オープンダイアローグを知り、学校での対話の場面で生かせないかと思ったとき、S先生とのこの経験を思いだしました。

当時は「楽しい時間」であったこの対話をオープンダイアローグのコンテクストに随って再考してみたい、そんな事を考えました。

 

そこから対話の質の問題に迫ることができるかどうかはわかりません。

せめて、何か糸口のようなものが見出されればと思い、2年ぶりに前任校を訪ねました。

 

<次号へ続く>

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対話で出会いなおす 〜オープンダイアログに学ぶ、教師のためのツール考察①〜

対話で出会う新たなコンテキスト
 
何か解消したい問題がある時、できるだけ早く、それに関わるメンバーで車座になり、ゆったりとしたペースで語り合う。気持ちを共鳴させながらじっくりと聴き合う。
消して、性急に結論を求める事なく、多様な声を重ね合わせながら、問題に対して、知らず知らずに囚われていた窮屈な考え方から解き放たれていく。
 
学校において教師同士、保護者と教師、または子どもと一緒に、そんなふうに対話をすることができれば、なんと素晴らしい事でしょう。
 
しかし、現場からはこんな声が聞こえてきそうです。

 
それはそうだろう、そうできればいいに決まっている。でも、そんな綺麗事を言う人は教育現場のことを知らない。
どこにそんなゆったりした時間があると言うのだ。
時間を捻出したにしても、それに関わるメンバーを集めるのも大変。
日時を調整したり、依頼書を送って決裁をもらったり、やっと集まることができた時には問題の質も変わってしまってしまっている事も多くある。
性急に結論を出すなと言われても、忙しい中せっかく集まったのだから、具体的に効き目のある対応策を作り出さなければならないではないか。
 
長いこと現場にいた私にはそのことがよくわかります。
 
いろいろな話し合いの場を数多く経験しましたが、問題の発生から時間が経ち、やっとの思いで集まったミーティングは空虚なものになりがちでした。
問題を「解決する方法」に目的が置かれてしまうせいでしょうか。
そして、ほとんどの場合、解決法の決定打というものを打てずにぼんやり終わってしまうせいでしょうか。
 
一方で、問題発生後すぐにミーティングが開かれた場合は、往々にしてよい話ができるとこが多かったように思います。
 
いずれにせよ関係者が同じ場所に同じ時間に早急に集まり、時間をかけて話し合うということはいつでもスムーズに行われる事ではないと思います。
 
では、どうすればいいのでしょうか。
 
私たち教師は校内でしばしば簡単な打ち合わせをします。

打ち合わせと言うよりも、ちょっとした情報交換のようなものです。

もっと言ったら、井戸端会議のようなもの。

今さっき教室で起きた事、些細だけれど気になっている子どもの言動について。わざわざ開かれるミーティングで言うほどのこともないような、取るに足らない話などが気軽に語られます。
その多くはフォーマルなものではなく、インフォーマルなものです。


廊下での立ち話であったり、校内を移動しながらであったり。
担任でなければ職員室での昼食の時間だったり。
時には放課後の教室でついつい話し込んでしまうこともあると思います。
 
一方で、フォーマルな会議もあります。毎月行われる職員会議。

「学びの支援全体会」などという会もあり、その中で特別な配慮が必要な子どもについて話し合われるます。
 
このような会で話題に出る子となると、かなりの強者に限られてきます。

ちょっと気になる程度では、このようなかしこまった会議ではなかなか出にくいのものです。
 
しかし、「ちょっと気になる」程度のことを気軽に言い合える現場と、そうでない現場の間には極めて大きな違いがあります。


大きな出来事は突如起きる事もありますが、ほとんどの場合は「ちょっと気になる」ことが積もり積もってあふれて起こるものである事を現場経験の長いものなら誰でも知っています。
 
つまりは
『「ちょっと気になる」程度のことを気軽に言い合える』場づくりが何をさておいても、なくてはならないということです。
 
小さいサインで
時には2人や3人でも
ほんの短い時間でも
 
ちょっとした気付きや気になるエピソードを「気軽に聴いてもらえる」

そんな空気が流れている学校であることが、教師にとっても子どもにとっても幸せであることは間違いありません。
 
まあ、確かに。それはそうだろう、別に何も目新しい話ではない。
で、一体何がオープンダイアローグなのだ。それとどういう関係があるの?

ここまで、読んでいただいた方は思われるでしょう。
 
まあ、そう焦らずにお付き合いください。

 


オープンダイアローグに学ぶ対話の本質
 
1、«体験している世界»を内側から感じる
2、«多様な声»が生じる場にする
3、«新たな理解»を一緒に生み出す
 
これらを用意周到な話し合いの場だけで意識するのではなく、
 
学校の日常の中の、細やかな対話、
廊下での立ち話で
職員室の片隅の給湯室で
メインの話が終わった後の学年の打合せの中で
 
意識しながら対話する、そういう時間を積み重ねる。
そんな中から始めて行ってはどうだろうと提案したいのです。
 
例えばこんな感じ

若手のA先生がベテランのB先生、支援員のCさんと放課後印刷室で立ち話をしています。
 
A先生「なんか、I君、この頃イライラしていて周りの子に乱暴にふるまうので参ってしまうんですよね。」


B先生「いや〜、ほんと。A先生大変だよね。I君、力も強いしカッとなると人の言うこと全く耳に入らないしねえ。周りの子たちもピリピリし出すし、先生も辛いよね。」


Cさん「私、この前朝、玄関でI君が一人で泣いているのを見かけましたよ。声掛けたら、お家でお母さんとケンカしたって。目にいっぱい涙溜めて…」


A先生「そうだったんですね。そいえば、小さい弟もいるし、お母さん、介護の仕事をしていて忙しいし…」


B先生「I君、そういえば入学式の時もお母さんから離れられなくて、でも、1年生の後半からは見違えるように頑張っていたのにね。本当はやっぱり寂しいんだね。」


A先生「…そうですよね。がんばりの裏返しかもしれないな〜。学校にくるだけでも本当はしんどいのかなぁ。」


Cさん「…そうなんですね〜。私も、気をつけてまた見てみますね。」
 

この間、およそ7〜8分。


話し相手は学年の先生だったり、学校職員や支援員の方だったり、いろいろな立場の人が混ざり合って、I君のことを話しました。

 

先輩のベテランB先生はA先生のやり方がどうのこうの、上から目線でああしろこうしろ言わないし、

教師ではない支援員のCさんの気付きもとても大事にされます。

みんながいろいろな角度からI君を見つめて、重ね合わせていきます。
 
小さいサインで
時には2人や3人でも
ほんの短い時間でも
 
1、 体験している世界
I君やA先生の身になって考えるB先生やCさんが居て
 
2、 多様な声
乱暴なI君、泣いているI君、甘えん坊なのに頑張っていたI君像を重ね合わせ
 
3、 新たな理解
がんばって学校に来ているI君、本当は寂しくて仕方ないI君
 
こんな対話の場がいつでも用意されていれば、
ちゃんとさせなきゃ、乱暴をやめさせなきゃ。
教師は毅然として子どもに厳しく指導しなくては。
という一方通行で問題を解決しようということからA先生は随分解き放たれると思うのです。
 
小さいサインで
時には2人や3人でも
ほんの短い時間でも
 
オープンダイアローグに学ぶ対話の本質
1、«体験している世界»を内側から感じる
2、«多様な声»が生じる場にする
3、«新たな理解»を一緒に生み出す
 
いつでも用意されている=日常に散りばめられている
ことが、
まずは、何をさて置いても大切なのではと思います。

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対話で出会いなおす 〜オープンダイアローグに学ぶ教師のためのツールを考察してみる〜

 

公認心理師の資格を取ったものの

 

それに見合う資質がなければどうしようもない。

ネットワークにも組織にも加入していない私は、せめて文献で学びましょう、とAmazonで本を物色していた。

 

書評などを参考にいろいろ調べる中でどんぴしゃ、どストライク

 

「これだ!これだ!これじゃあ!」

と私の野生の勘を激しく揺さぶったタイトルを見つけた

 

それが

 

「オープンダイアローグ。」

 

早速その関係の本を買い求めた。

 

 

最初に届いたのはオープンダイアローグを日本に広く紹介した精神科医の斎藤環氏著・訳による

「オープンダイアローグとは何か」(医学書院)

という本だった。

 

オープンダイアローグとはそもそもフィンランドで行われていた統合失調症の治療法のこと、

斎藤環氏は2013年の暮れにフィンランドでこの治療法が話題になっている事を知り、たちまち虜になったとの事を次のように記述している。

 

 結論から言いましょう。すっかりオープンダイアローグに魅了されてしまっています。ここには確実に、精神医療の新しい可能性があります。

斎藤環著、訳「オープンダイアローグとは何か」(医学書院)P12

 

さらに、

 

 私がオープンダイアローグに惚れ込んだ理由は他にもありますが、実は、それらはすべて後付けです。シンプルに言い切ってしまえば、要は私の臨床家としての直感です。「オープンダイアローグ」という単語を聞いた瞬間から、直感が囁いているのです。「ここにはとんでもない鉱脈がある」と。

 斎藤環著、訳「オープンダイアローグとは何か」(医学書院)P17

 

な、なんと、この感覚、同じだ!

 

そうそう、野生の勘のことを斎藤氏は直感が囁いている、と言っているのだ!

私も臨床家と言えば臨床家だし、(医者ではなく、教師だが…)臨床の世界に「オープンダイアローグという響きにピンと来る所に何かあるに違いない!

 

 

「オープンダイアローグ」による治療の創始者の1人であるフィンランドのヤーコ・セイックラ(Jaakko Seikkula)教授は繰り返し

 

「オープンダイアローグ」は「技法」や「治療プログラム」ではなく、「哲学」や「考え方」である事を強調している。

 

という記述を読んだ時、私たちが進めている「学びの共同体」の理念と丸かぶり、

「きたーー!きたきたー!」と雄叫び、

野生の勘は確信となっていった。

 

 

次にAmazonから届いた本は

「対話のことば オープンダイアローグに学ぶ問題解消のための対話の心得」(丸善出版)

である。

本の帯の言葉を要約すると

「オープンダイアローグの知を日常に」ということで、オープンダイアローグを多様な人が交わることで起こる問題を解消する方法の一つとして「対話」のもつ力を活用できるように対話という行為を紐解き、その心得をまとめた本。

である。

 

しかも

より実践的に取り入れていくために、マニュアルでもなく、テクニックを示す本でもなく、より実践的に思考や会話、対話を取り入れていくことができる考え方として、パターン・ランゲージという形式で30の「ことば」にまとめら体系化されている。

 

のである。

 

これはもう、本当に具体的で、わかりやすいではないか!

そして、対話のパターンというだけではなく、その底に「他者を心から尊重する」(教育の現場でも、結局のところ、これが根っこだと思うのだが…)という思考がしっかり流れている。

 

本を開いて最初のページ、いきなり、

教育学者の秋田喜代美先生の次のような「推薦のことば」が掲載されていた。

 

私が専門にしている保育や教育は、対話を通して、ともに育ち合い、学びを深め、新たな世界との出会いを開き、知を協創する場です。しかし、学校教育や児童福祉の制度が与える、「教えるも者ー教えられる者」「育てる者ー育てられる者」という役割の中で日々交わす言葉が、子どもや保育者・教師がいきいきと育ち合う機会を与える一方で両刃の剣となり、時にはある人の存在を制圧したり揺るがしかねない危機も生まれます。教育実践は毎日だから、無自覚に流れがち。だから、言葉の質と言葉が生まれる空間、時間、人間関係の3つの「間」を振り返る場とツールが求められます。この本で紹介されるオープンダイアローグから得られる30のことばは、その確かな道標です。

井庭 崇、長井雅史著 「対話のことば」P1

 

 

心理から入っても、自分のキャリアからすると、どうしても出口は学校教育の世界だ。

秋田先生の言葉に強く背中を押される思いだった。

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何を言いたいかというと、

学校現場で起きている子ども同士、子どもと教師、保護者と教師などの間におきる困難、すれ違いや衝突。それを解消していくために「対話で出会いなおす」ことを具体的な場面を通して考えていくことはできないだろうか、

 

もっと言うと、困難を解消する以前に、「対話で出会いなおす」ことで、困難そのものを生まない可能性を広げる事が できはしないだろうか。

ということだ。

 

秋田先生も「ツールが求められている」と言っているではないか!

ならば

よし、考えてみよう

と思ったのだ。

 

オープンダイアローグに学ぶ30のことばは次の3つ「対話の本質」に沿って展開している。

 

1、体験している世界

2、多様な声

3、新たな世界

 

これらに沿ってどれだけ「対話で出会いなおす」事例を掘り起こすことができるかは未知数。

可能性のあるところから、一つ一つやってみて、このブログで紹介していきたいと考えている。

 

風と砂山の記憶 〜エピローグ 学校の残したもの〜

少子化や過疎化のあおりを受けて北海道でも大変な勢いで学校数が減少しています。

 

私がこのブログで何篇か記してきた「風と砂山の記憶」の舞台である石狩市立石狩小学校も今年度末で146年の歴史を閉じます。

 

明治6年 開校なので、北海道開拓と共に開かれた学校でした。

それから150年、開拓者で賑わった街は閑散とした風景に変わり、学校すら消えてしまうことになりました。

 

もう30年も前にはなるものの、この学校に勤務していた者としてはやるせない気持ちでいっぱいです。

 

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閉校なるのならばと、先日、当時の同僚達と学校を訪問させていただきました。

 

私たちがこの学校に在職中、ちょうど開校120周年を迎えていて、色々な記念事業を行なっていました。

 

図工の教材開発に埋没していた私は、これをいい機会と捉えて(何せ少しではあったけれども、予算があったので)、造形作家の方と子どもたちの

コラボで作品づくりに取り組みました。

 

その当時の作品が30年経った今も校内に残っていました。

企画した私がいうのも何ですが、経年の劣化は多少あるものの

作品のクオリティーの高さはそのままです。

こんな素晴らしいものが、無くなってしまう学校の中にある事を皆さんに知ってほしいです。

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これは当時の6年生と作家の方とのコラボレーション。

色とりどりの立体を子どもたちがつくり、それをアーティストが組み合わせて階段の踊り場の壁に設定したものです。

階段に足場を組んでのなかなかの大工事で取り付けてもらいました。

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円形校舎の2階水飲み場に取り付けた鏡

です。

低学年の子どもたちが描いた絵をもとにつくられています。左側の作品は円形校舎を模したもの。校舎の中に学習机が並んでいます。教室の中で、円形校舎を想像しながら描いた子どもの気持ちが伝わってきて私の大好きな作品です。校舎の上にはちゃんと雲もありますが、何故かその一つには時計が張り付いていました。

作成した当時はなかったので、その後どなたかが貼り付けるのに丁度いいと思って付けたのでしょう。

学校の上の雲に時計がついていて時間を管理して見下ろしている、

というのも面白いな、とちょっと笑ってしまいました。

 

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円形校舎1階の鏡たち。

同じく低学年の子どもたちの作品をもとにしてつくられています。

右側の塔は何故か茶色の太陽に照らされて身体をそらせています。

同時私のクラスの子供たちは塔の絵を描くことに何故か凝っていたのでそのうちの1枚だったと思います。

この塔も、左側の鳥もなんと力強いことでしょう。

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この白いオブジェはモニュメントとかではなく、校門です。

これは子供たちとのコラボではなく、造形作家の平田まどか氏の作品です。

 

平田さんは札幌市を中心に活動している作家ですが、この周年事業に参加していただき、今まで紹介した作品も子供達と一緒に手掛けてくれました。

 

校門は左右に対象にあるもの、という常識をくつがえしたこの作品。

除幕式をしたあの日から30年近くたった今も青空に映えていました。

 

学校が閉校して子供たちがいなくなっても、この校舎は資料館として残されるとのこと。

しかし、やがてそれもなくなれば、これらのアートも一緒に消えてしますのでしょうか。

 

この作品たちを毎日見上げていた子どもたちのまなざし。

毎日通った学校生活の記憶の中の

 

空の色だったり、

鳥の声だったり、

海から聞こえて来る波の音だったり、

 

のように

 

階段の踊り場のニョロニョロや

水飲み場の不思議な塔や恐竜との出会いが心を耕し続けていたのならば、

これらのアートたちがなくなっても

 

残っているのだ、それが、アートの力なのだ

 

と私は強く思っているのです。

 

風と砂山の記憶 〜エピローグ・閉校〜

あの角を曲がったら、学校があるはず。

 

と思ったら、殺伐とした野原が広がっている。

鉛色の空から斜めに突き刺さるようにみぞれが叩きつけている。

 

道を間違えただろうか、と思った矢先に 視界の右端に風変わりな円形のくすんだオレンジの建物が見えた。

その建物が、これから赴任する学校だと気づき、何とも暗い気持ちになってしまった。

 

それが以前、このブログに何編か書いた「風と砂山の記憶」シリーズの舞台となったI小学校こと、石狩市立石狩小学校との出会いである。

 

www.katoreen.com

 

あの日から30年余りたった先日、

 

本当に久しぶりに「あの角」を曲って石狩小学校を尋ねた。

あの時とはうって変わって、またとない晴天。

 

オレンジの校舎は青空に映えて眩しい。

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今年で開校146年目を迎える北海道で最も歴史の古いこの学校は

今年度末で閉校となることが決まった。

 

その知らせを聞いて、かつて此処で一緒に勤務した懐かしい同僚と待ち合わせ、訪ねたのである。

 

閉校の知らせには正直驚いた。

 

児童数の減少は聞いてはいたが、いまだに60名近くの子ども達が通っているのになぜ閉校になるのだろう。

 

現職の校長先生に閉校の背景やその後子どもたちがどうするのか等について伺った。

 

児童数の減少に加え、校舎の老朽化が閉校の理由とのこと。

閉校後、子どもたちはスクールバスに乗り、石狩川河口に掛かる大橋を超えて北側にある八幡の小学校に通うことになるとのこと。

 

私はその話を聞いて釈然としなかった。

全く納得できなかった。

 

地域のこと、そこに根を張っている歴史のあるコミュニティーのこと。

子ども達もその成員に他ならないのに。

 

スクールバスは石狩川の河口の砂嘴にある現在の学校をスタートし、現在の校区の南端まで降ったのち、石狩川河口橋を超えて八幡小まで行くとのことである。

 

夏でも30分近く掛かるその行程、冬は時間がさらに掛かるのみならず、危険も伴う。

 

凍った河口橋を60人の子どもを乗せて毎日往復するスクールバスを運転する側の苦労も並大抵のことではあるまい。

 

ホワイトアウトすることなど、日常的な地域である。

 

校長先生も

「校区が川を挟んでしまうと、子どもたちは放課後遊びに行き来することができなくなってしまいますよね。河口橋を友達と遊ぶために自転車で超えていくのは難しいことですよね。」

 

と残念そうに話していた。

閉校が決まってから赴任し、閉校事業や事務を任された校長先生も、割り切れない気持ちを抱いているようであった。

 

子どもの人数が減るということは地域の人口が減っていることに他ならないのだから

「仕方のないこと。」なのだろうか。

 

学校は子どもたちの学びの場というだけでなく、地域コミュニティーのコアでもある。

子どもを通して大人も繋がる場である。

 

学校が消えることで、さらにこの地域な人と人の繋がりが希薄になるに違いない。

 

この統廃合の話の端端に透けて見えるのが

「金が掛かるから、廃止にしてしまえ。」

ということだ。

 

少子化、人口の減少、地域社会の崩壊。

「金が掛かるから、廃止にしてしまえ。」

という掛け声がそれに拍車をかけている。

 

60名の児童数は少ないだろうか。

 

私は教師も子ども同士もお互いをよく知り、お互いをケアしながら育ち合うのに最適な人数ではないかと思う。

 

かつての都市部の千人を越す子どもの数こそ、困難を生み出すのではないかと思う。

大量に、かつ効率よく労働者を作り出すことが学校の役割だった時代など、もうとうの昔に終わっているのだ。

 

少なくなってしまったのなら、その少ない子どもたちや地域の繋がりに丁寧にお金を掛けていかなくて、どうやって「持続可能な社会」を形成していくというのだ。

 

「少ないから、お金を掛ける。」べきではないのか。

 

 

兄弟のように深く関わり合って生きてきた子どもたちの濃密な日常。

近所の顔見知りのおじさんやおばあちゃんとの道端での立ち話。

もうなくなってしまっていた地域で唯一の商店での世間話。

 

そんなもの引っくるめて

「金が掛かるので、廃止してしまえ。」

 

ならば、やがて人はどこにもいなくなる。

「金が掛かるので、日本全部、廃止してしまえ。」

 ってことだ。

 

 

校長先生に

「地域の反対の声はなかったのですか?」と聞いてみた。

 

子どもの通学時間に心配の声は上がったようだが、大きな反対運動はなかったようだとのことだった。

 

もうその体力が地域に残っていなかったということなのだろうか。

切ない気持ちになった。

 

 

 

校舎を出て、私も私のクラスの子どもたちも大好きだった砂山に上がってみた。

私の記憶の中の砂山より、ずいぶん小さくなっているような気がした。

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 てっぺんからは、昔と変わらず海が見える。

 

10月の優しい陽の光が砂を照らしている。

子どもたちと一緒に、よく寝そべっていた砂の上に座り、グラウンドをしばらく眺めていた。

さすがに10月の陽射しは砂を温めきれないようで、砂からは冷たさが伝わってきた。

 

 

不意に、鳥の群れが草むらを飛び立ち、真っ青な空の向こうへ飛んで行った。

こんなに晴れて風の穏やかな日はこの地では稀なことなのだ。

 

久々の、

そして、ここが学校である時間のうちの、

おそらくは最後の訪問が

こんな穏やかな日であったことが、砂山に

「おかえり、よく来てくれたね。」

と言ってもらえた気がした。

 

「ただいま。私はやっぱりここが大好きだよ。」

 

私の教師としての学びの原風景。

ここからの景色は

学校がなくなっても

 

忘れることはできない。

 

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主体的で対話的な深い学びの風景⑥ 〜今年も訪問!最北端の町 Part1〜

9月の半ば、昨年度から訪問させていただいている、最北端の町、稚内市のW小学校に今年も訪問させて頂く機会を得ました。

前日に稚内に入り、夜はW小の先生たちと一緒に、さすが最北端の港町と心底唸らされる海の幸を堪能しました!

居酒屋ルパン最高!太鼓判‼️

 

さて翌朝。

突然の大雨はあられ模様に。

まだ9月にもかかわらず10度ほどしかない気温、これもさすが最北端!

 

一年弱ぶりに訪れた校舎から見える海は、ちょっと濃い目の淡墨色をしていました。

時に晴れ間も見えたりするせいか、雲が虹色になる彩雲も観られたり、やっぱりここはファンタジックな世界です。

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校長先生をはじめとして、職員も春の異動で結構入れ替わっていたり、児童数の減少で複式学級ができていたり、若干雰囲気は変わっていました。

でも、やっぱり「ただいま」と言いたくなる場所である事は相変わらずでした。

 

校長のS先生は女性で、ばりばりのスポーツマン、大らかで、とても頼もしい方でした。前任のT先生も包容力満点の素敵な方だったので、なんと上手くバトンリレーがなされたものだと感心しました。

 

さっそく教室へ。

 

まずは6年生。

 

授業が始まっていたのか、まだ朝自習のような朝の活動中なのかわからないのですが、子どもたちはそれぞれのペースで算数の教科書の問題を解いていました。

 

「比例反比例」の単元です。

こんな問題。

●800mの距離をカメとウサギが競争します。

●カメは分速20m、ウサギは分速 40mで進みます。(当然ウサギが速い!)

●ところが途中でウサギは居眠りしてしまいます。(お約束の行動!)

●ウサギが何分より多く昼寝をしたらカメは勝てるでしょう?

 

時間=距離÷速さ なので

ウサギが居眠りしなければ

800÷40=20   20分でゴール

しかし

カメは休まず頑張って

800÷20=40  40分かかってしまいます。

なので、ウサギには20分より長く寝ててくれたら勝てる!

 

 

この問題をめぐって、3〜4人のグループで何やら、ぶつぶつ呟きながら考えています。

1人の子が

「いや〜〜、わからない、どういう事??」

とため息混じりに声を発しました。

T君です。

 

「先生は?あれ、いない…?」

確かに教室の中を一見したところ先生の姿は見当たりませんでした。実はいるにはいたのですが、存在感なく端の方で何やら教材をTVに映す準備をしていました。

 

T君の「わからない。」に反応してグループの子たちは頭を付き合わせて考え出しました。

「だから…」「でも…」

どうも考えが先に進まず堂々巡りしているようです。

 

その様子を見ていて話に参加したのは、後ろのグループにいたK君たちです。

「20分ってでてるじゃん、いんだよ答えは20分で。」

とK君。うなずきながら見守るK君のグループの子たち。

 

よく観ると、見守り組(というか、聴き守り組?)の中に、先生の姿もありました。

うんうんと、あごに手をやり頷いていた新卒2年目の小柄な先生は、6年生の中に入ると見分けがつかないくらいです。

 

しかし、T君は納得しません。

「20分?本当に20分でいいの?21分じゃなくて?…?」

 

20分でちょうど同着になることに気づき、それでは勝ちとは言えないのではないか。

ならば何分と言えばいいのか???

 

ということにT君は悩んでいたのです。

 

その時、先生はようやく声を発しました。

「T君、このグラフ使って、どこがわからなくて困っていたか皆んなに話してみてくれる?」

とTVの画面にその問題のグラフを映してT君に促したのです。

 

先生はT君のつぶやきに気付いて、その「困り」をクラスで共有できるように用意していたのです。

グラフを使って、クラスみんなに自分が疑問に思う事を話したT君。

 

T君の「わからない」はクラス全体の問いになっていきました。

 

「なるほどね、そっか、20分1秒?」

「20分と0.001秒でもいいっしょ。」

「0.000001秒でもいい!」

 

T君の困りに皆が反応し、教室の空気が活発になっています。

 

 

先ほどからじっくり話を聞いていたLさんが

「〜より、って書いてあるから、答えは20分より、でいいんじゃない?」

と呟いたのを聞いてK君、

「そうだよ、日本語の問題だ〜〜〜。オレは日本語が苦手だっ〜。」

と、苦笑い。

 

周りの子も

「〜より?以上と同じ??未満っていうのは入らないんだよね。」

などと、言葉の意味を考えていました。

 

T君も細かく、うなづきながら

「そういう事か〜〜。」と言いながら微妙な面持ち。

とはいえ、なんとか納得したようです。

 

1時間目はじめの、ほんの10〜15分間程の教室の中のエピソードですが、

私はクラスの子どもたちの中にしっかりと「学び合う」関係ができていることにとても感激してしまいました。

 

T君が「わからない。」と頭を抱えていた時、教師はここぞとばかりに

「それは〜〜だから、〜〜というように考えるの。わかった?!」

と教えたがるのが常です。

教室は

教える者と、教えられる者がいて

教師は子どもを

「わかるように教える。」ことが仕事であると多くは考えています。

 

しかし、この短いエピソードでは、先生が見守る(聴き守る)事、更に、ここぞという時にグラフを用意し、T君に彼の疑問を皆に話すように促した事で、

T君の「わからない」から他の子たちの思考が豊かになっていきました。

 

そしてさらに重要なことは、このエピソードが、日常の授業の中のほんの一コマであるという事です。

つまり、先生は日頃から、「教える」事より「考えること、学び合う」ことを当たり前のように大切にしているということです。

 

教師は上から何でも「教える」のでは決してこのような子どもたちは育たない、

ということを、またしても教えてもらった気がしました。