katoreen101の日記

学校教育と授業研究・アートと猫と…あとはあれこれ

コロナが変える学校教育の世界②〜コロナの時代の僕ら〜

5月になった

例年ならば、ようやく迎えた春を人々が満喫するシーズンなのに今年は全く様相が違う。

人の居ない公園には、いつもの年と変わらず木々に花が咲いているのが、際立って美しく見える気がする。

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市の感染者数が減らないので、

おそらく、臨時休校がまた延長されるにちがいない

 

先日、10名ほどの先生たちとオンラインミーティングを行った。

今のそれぞれの学校の様子や今の気持ちを語りあった。

 

オンラインでも、お互いの顔を見ながら色々な事を話すだけで、気持ちが和む。

 

みんな、不安なんだ。

みんな、先が見えないんだ。

 

再開に向けて準備する。

感染の状況が良くならず延期になり、準備が無駄になる。

無駄かもしれない、と思いながら、また次の準備を始める。

 

そんな事を繰り返しているのは

自分だけではないと思うだけでも、気持ちが楽になる。

 

先生たちの語りはどれも印象的だった。

 

みんな、日常の中断された時間を過ごしている。

ずっと、ずっと、心臓の鼓動のようにリズミカルに続いていた時間が弛緩してしまった。

間延びした波長の底に居るのに、いつものリズムを刻もうとする頭と身体に惑っている。

 

 

ある学校の先生たちは、子どもたちが分散登校してきた時に、50m走のタイムを取るため、分刻みのスケジュールを真剣に話しあっていたそうである。

運動会のために、評価のために、今やらないと間に合わなくなると。

 

いや、いや、いや

間に合わせようとしている運動会だって、通知表だって、いつも通りにあるかどうかも分からないんだ

って事に気付かない様はまるで、

 

身体を失っているのに、ルーティーンを繰り返している亡霊のようだと言うのは言い過ぎだろうか。

 

この時間の弛緩はいつまで続くの誰にも分からない。

リズムが戻ってきたときに、世界が今まで通りなのかも誰にも分からない。

 

学校がお休みの中にあって

お父さんと普段できない濃密な時間を過ごして、自転車の乗り方を教わり、見事に乗れるようになった子や

おじいさんの山小屋で暮し、薪割り名人になった子の事を話してくれた道北地方の先生の語り。

 

定時退勤や在宅勤務によってできた時間的な余裕の中で、じっくりと夫と話をしたり、ゆっくり食事や散歩をしたりできた事で、心が安らいだというという女性の先生の語り。

 

朝から晩まで時間に追いかけられている日常が途切れ、

ポッカリと空いた時間の広場で、伸び伸び過ごしている子どもも大人も、実はたくさん居るように感じた。

 

仲間の先生が勧めてくれた本を早速読んでみた。

 

パオロ・ジョルダーノ著

「コロナの時代のぼくら」

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日本よりも早く、コロナウイルス🦠の感染爆発という事態に見舞われたイタリアの科学者であり作家である青年の手記だ。

緊急事態になりつつある、と感じた2月の末から3月にかけて書かれたものである。

 

科学者の直感から、これはただごとではないと感じながらも、

直ぐには受け入れられない周りの人々(いや、著者自身も)の様子や

それに対してのジレンマ

 

感染の広がりについて科学者の目で冷静に分析する一方で

身体のみならず、人々の心や関係性を侵していることへの恐怖を淡々と綴っている。

 

イタリアでのできごとは、日本では断片的に報道されていたけれども

現地での混乱や恐怖は相当なものだったことが伺われる。

 

ジョルダーノの抱く不安は誰にとっても、もはや人ごとでない。

地球上の誰の足元にも忍び寄っている。

 

本編は3月始めの時点までで終わっているが、

3月20日の日付けで書かれた

「コロナが過ぎたあとも、ぼくが忘れたくないこと」

と題された「あとがき」に心を揺さぶられた。

 

混乱の最中にいる今、誰もが、忘れたくないことのリストを作るべきだと、

そして平穏な時が来た時にお互いのリストを見比べ、どんな共通点があるのか、そのために何かできることはないのか考えてみる

という提案をしている。

 

僕は忘れたくない。

ルールに服従した周囲の人々の姿を。そしてそれを見た時の自分の驚きを。病人のみならず、健康な者の世話までする人々の疲れを知らぬ献身を。

でも僕は忘れたくない。

最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策にたいして、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲り笑ったことを。

〜中略〜

僕は忘れたくない。

結局ぎりぎりになっても僕が飛行機のチケットを1枚、キャンセルしなかったことを。とにかく出発したい、その思いだけが理由であきらめられなかった、この自己中心的で愚鈍な自分を。

〜中略〜

僕は忘れたくない。

今回のパンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。

僕は忘れてたくない。

家族をまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要にせまられても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。

 

そして

ジョルダーノはこの手記を通して読者にこんな風に問うている。

 

緊急事態に苦しみながらも僕らは

ーそれだけでも、数字に証言、ツイートに法令、とてつもない恐怖で、十分に頭がいっぱいだがー

今までとは違った思考をしてみるための空間を確保していかなくてはいけない。30日前であったならば、そのあまりの素朴さに僕らも苦笑していただろう、壮大な問いの数々を今、あえてするために。

たとえばこんな問いだ。すべてが終わった時、本当に僕たちは以前と全く同じ世界を再現したいのだろうか。

 

ならば、私たちも自分に問うてみよう。

この状況が落ちついてきた時、本当に自分は以前と全く同じ学校を再現したいのか。再現すべきなのか。

この状況が落ち着くことはなく、以前に戻れないとしたら、何から手を付けたらいいのか。

 

そして、そのために「忘れたくない」事リストを挙げておく必要があるのかもしれない。

 

 

追記

パオロ.ジョルダーノの「コロナの時代の僕ら」は「あとがき」のみ、現在ネット上で読むことができます。

https://www.hayakawabooks.com/n/nb705adaa4e43

 

この手記が書かれたのは3月末なので、イタリアの状況はそれからさらに深刻になる途上です。

その後のジョルダーノの記事をネット上で読むこともできます。(一部有料記事)

https://courrier.jp/news/archives/197213/