ほんの2~3か月前には想像できなかった
まるで、SFのような世界の中を
ゆっくり
ゆっくり
毎日が進んでいる。
当たり前の日常が歪んでしまい、空が晴れている日も、どんよりしているように感じる。
本当にウイルスがこの身に迫っているのか。
それとも不安に苛まされているだけなのか。
メディアに登場する感染症の専門家と言われる人々の数多の言葉。
どれを信じればいいのかわからない。
ここ1〜2週間が山だ。
ここを乗り越えればすぐにまた元の日常が戻ってくる。
そんな言葉はもう誰も信用していない。
情報は誰かの都合で書き換えられているに決まっている。
自国の国際社会での地位や
自分のための大統領選挙や
誰かの思い通りの統治のために
どう考えても窮状にあるというのに
医療関係者でもない
ウイルスの研究者でもない
薬品開発の技術者でもない
インフラや物流を支える能力もない
生活必需品の生産もできない
そんな自分は、はっきり言って何もできない。
「みんなでコロナに打ち勝とう!」
といわれても、私は何に打ち勝てばいいのかわからない。
ただ、
おろおろと
「どうしたもんだろう。何が起きるのだろう。」と心配し
でくの坊のように日々やり過ごしている。
周りの人と
「心配だね、良くなるまで辛抱だね。早くみんなで会いたいね。」
みたいなことを言いながら
この困難が過ぎ去るのを
やり過ごして、
いろんなことに折り合いをつけて何とかやっている。
人が観に来なくても
見事な花を今年も咲かせている桜の美しさに癒されたり
庭先の草花を眺めたり
外出を自粛するように言われて
窓から顔を出して、真っ暗になるまで見続けていた夕暮れの色に感動したり
昔、好きだった音楽を聴き返してノリノリになったり
固くなった身体を不器用にストレッチして深呼吸したり
そんなことをして
ただただ、やり過ごしている。
私には「打ち勝つ」ことはできない。
でも「やり過ごす」ことができるのなら
もう一生懸命にそれをやり切りたい。
いろいろなことに折り合いをつけて。
これから、一体どうなるのだろう。
誰が正解を教えてくれるのだろう。
学校は正解を教えてくれるところだったのに
いつ学校が再開されるのかさえ、学校に聞いても正解を教えてはもらえない。
いつ始められるかは誰にもわからない。
誰も正解を知らない。
この世は正解のない事だらけ
本当はそれが当たり前だったのだけれども、
そこに忽然とスポットライトが当たってしまい、立ち尽くす。
そこに答えを求められても
出てくるのはどうしても
なんとかかんとか、
どうにかこうにか、
皆で知恵を絞って「やり過ごす」ことを
折り合いをつけて、必死でやりきることしかない気がする。
でも、
それは決してマイナスなのではなく
むしろ必要な能力なのではないだろうか。
今こそ
「不確実性への耐性」や「negative capability(ネガティヴ ケイパビリティ)」
について深く考える時ではないかと思う。
学校が休みになって時間ができたのであれば、音楽やアートや身体との対話のような
「negative capability(ネガティヴ ケイパビリティ)」の世界に浸ってみるチャンスかもしれない。
もう一つ
教師としては、これだけは子どもと一緒に考えたいと思うことがある。
それは
この困難をやり過ごす事ができるかどうかは
対立や非難や悪者探しではなく
一番の弱者は誰か、ということを思い
そこに向って私たちはどう力を合わせられるか、にかかっているのではないか
ということである。
※「negative capability(ネガティヴ ケイパビリティ)」(「負の能力」「陰性能力」。)どうにも対処のしようのない、どうにも答えの出ない事態に耐える能力。」または「性急に証明や理由を求めずに、不確実性や不思議さ、懐疑の中にいることのできる能力。」
箒木蓬生著「ネガティブ ケイパビリティー 答えの出ない事態に耐える力」より