前回の記事では
オープンダイアローグに学ぶ対話の本質
1、«体験している世界»を内側から感じる
2、«多様な声»が生じる場にする
3、«新たな理解»を一緒に生み出す
そんな場が学校の中に、
いつでも用意されている=日常に散りばめられている事の大切さについて提案しました。
立ち話だったり、井戸端会議のようであったり。
いつもの風景になっていくこと。
つまり回数を増やしていくということです。
今回は、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。
ダイアローグの質についてです。
どこまで深く«体験している世界»に迫ることができたのだろうか。
«多様な声»をどれだけ織りかさねられたのだろうか。
«新たな理解»は自身の心を真に揺り動かすものだっただろうか。
質を高めるために「こうすればいい。」ということを私は何も語れません。
ただ、対話を終えた後に「今までとは確実に、語り合った世界の見え方が変わった。」と感じることはありました。そういう時は自分だけではなく、対話のパートナーも同じ感覚をもつようです。
とても強く感じる事もあれば、細やかに感じる事もあったように感じます。
うまく言えないのですが、その辺にダイアローグの質の物差しがあるのかもしれません。
そんなことを考えている時に、ある先生との対話を思いだしました。
2年前まで同僚だったS先生との対話です。
私たちは2人とも造形教育に携わっていて、子どもたちが描いた絵を観るのが大好き。
しばしば子供の絵を見ながら語り合っていました。
私も子どもたちのことはよく知っていたので、一人ひとりの顔を思い浮かべながら、楽しい時間を過ごしたものでした。
たどたどしい描線や自信なさげな柔らかいタッチ。
乱雑で取り留めもないけれど、何となくユーモラスなモチーフ。
私たちの対話では「上手い」「下手」とかいう話は一切出てきません。
一人ひとりの表現を丸ごと受け止めて、その子の想いを追体験しようと対話を重ねました。
すると、子どものことを話しているのに、いつの間にか自分の心が耕されて、癒されていくのです。
さらに、S先生は、担任としても子どもの見方が広がってきたと感じているようでした。
オープンダイアローグを知り、学校での対話の場面で生かせないかと思ったとき、S先生とのこの経験を思いだしました。
当時は「楽しい時間」であったこの対話をオープンダイアローグのコンテクストに随って再考してみたい、そんな事を考えました。
そこから対話の質の問題に迫ることができるかどうかはわかりません。
せめて、何か糸口のようなものが見出されればと思い、2年ぶりに前任校を訪ねました。
<次号へ続く>