今勤めている大学の駐車場から、隣の附属小学校のグラウンドが見えます。
冬になるとスキーの練習のための雪山ができ、そこで冬の遊びを楽しむ子どもたちの声が響いています。
雪の中で遊ぶのは本当に楽しいものです。雪の冷たさ、柔らかさ、滑ったり転がったり、飛び込んだり、何かをつくったり…
雪国で育った人なら、良きにつけ悪しきに付け、雪との思い出がきっとあるはずです。
海辺の小さな学校で過ごした冬の日々は、ほとんど毎日が雪と風との戦いでした。
大変な事ばかりでしたが、一つ、忘れられない子どもの学びに関わる思い出があります。
海辺の学校がある地域は、風が強いせいか、市街地よりも一足先に冬がやってきます。
学校の砂山のグラウンドは11月にもなれば、毎日と言っていいほど吹きすさぶ雪交じりの強い風で濃い灰色から白くなっていきます。
12月になっても吹き溜まりはできるものの、降った雪が飛ばされて行ってしまうのか、グレーと白の入り混じった荒涼とした風景になります。さすがの子どもたちも、この時期はグラウンドで遊ぶことも少なくなっていまいます。
3学期になるとようやくしっかりと雪が積もります。
子どもたちは待ってましたとばかりにグラウンドに繰り出して遊びます。
空も地面も真っ白な中に、子どもたちの色とりどりのアノラックの色が映え、そんな中で一緒に雪だるまをつくったり、雪合戦をしたりして遊んだものです。
休み時間だけではなく、授業も良く外で行いました。グラウンド端の海岸段丘は天然のゲレンデとなり、スキーはもちろんの事、そり遊びや尻滑りなど、格好の学び(遊び)の場所でした。
低学年のスキーの練習にはちょっと急な坂で、誰かが転ぶと皆が巻き込まれて全員下まで転げ落ちて行ってしまい、雪だらけになって大笑い、どうしたら転がらないか、皆で作戦を立てたりしたものです。
図工の時間に色々な雪だるまをつくって、それに色を付けようという授業をしたことがあります。
題して「おしゃれな雪だるま」。
楽しそうだと思いつき気軽に始めたのですが、これはもう大変でした。
だいたい、
海から吹き付ける風が舞い上がる低温の中、雪は固まりません。
バケツに水を汲み、雪に付けながら塊をつくっていかなくてはならず、とても骨が折れるのです。
しかも、
用意した色水は、雪に染み込んでしまい、いくらあっても思うように雪だるまを彩ることができません。
さらに、
刷毛に付けた色水の滴が風に乗ってあちこちに飛んでいってしまいます。即座に撤収、中止と思ったのですが、子どもたちはやめようとしません。
どうやら…
おもしろいのです。
固まらない雪が、
バケツの水で締まっていく雪が、
雪にぐんぐん浸み込んでいく色水の変化の様子が、
そして何といっても、刷毛から滴り落ち、地面と垂直にすっ飛んでいく色水が!
わざと刷毛を振って、色水の飛ばしっこが始まります。
色水が飛んできて顔に付き、緑やら黄色やらになったお互いを見てまたまた大笑い。
そんなことをしながら、午前中いっぱい外で活動してしまい、
午後は凍った手袋や靴下ををストーブの周りで干しながら、わいわいがやがや。もう、みんな疲れて勉強になりません。
教師の思い描いた
「授業の目標=おしゃれな雪だるまをつくって、グラウンド飾ろう」
はあいにく、全く達成されませんでした。
色水を被り、大事なスキーウエアを台無しにした上に、授業の目標も達成できなかったのですから、本当にがっくりです。
しかし、
わいわいがやがやの中身に耳を傾けると、実は、子どもたちはたくさんの事を発見し、学んでいたのだ、ということが分かってきました。
・サラサラ雪は固めづらい事。
・水を加えると固められること。
・水はどこまで浸み込んでいくのかということ。
・風が強ければ強いほど、水は遠くまで飛んでいくということ。
・・・
子どもって本当にすごいなと思いながら、子どもたちの話に耳を傾け、今日はこれで良かったんだと思い直しました。
その日の出来事から、私は
「授業の目標って必要なのだろうか。活動の結果、子どもたちが、どんなことを学んだかが大事なんじゃないだろうか。」
と思い、先輩の先生にそう話したところ、
「あほか、おまえは。目標の無い授業なんてある訳ないだろ。
授業は目標があって評価があるから授業っていうんだ。」と、一蹴されてしまいました。
「そうですね…。」
もやもやしたけれど、そういうことは口にしない方がいいのかなとも思いました。
教師が意図したとおりにならない授業は授業ではないとすれば、自分は随分「授業じゃない」ことを授業中にやってしまっていることが、バレてはいけないと思ったのです。
やがて春が近づき、海岸段丘に積もった雪が柔らかくなりました。
何時のように遊んでいると、ある子どもが「うわ~、すごいよ!」と大声を上げています。坂の上から雪玉を転がすと自然に大きくなりながら斜面を転がり出し、下まで行った時にはかなり大きな雪玉になっていたのです。前の日に大雪が降ったために、いわゆる
雪捲(ゆきまくり)
ができたのです。
「お~。」と歓声が上がり、当然、みんなやり出しました。
「すごいね、雪が転がって、どんどんでかくなるよ。」
「昨日、たくさん降ったからだ。」
「雪が柔らかいからだ。」
「もっと転がしてみよう!」
活動がどんどん広がります。
失敗したと思っていた「おしゃれな雪だるま」の経験が生きていたことは間違いありません。
私は転がって大きくなった雪玉をみて、子どもたちの学びのようだと思いました。
小さかった雪玉が(子どもが)
坂の上から転がしたことで
(教師のちょっとした働きかけで)
雪が適温だったこと、転がりやすい斜面だったとこで
(適切な学びの環境の中で)
自ら大きな雪玉になっていく
(自ら成長していく)
「目標がないと授業ではない。」
は私の中でその日以降、次のように修正されました。
「大きな目標は一応あるけど、それに縛られて、子どもが何を学んだのかを見逃したくない。」
もしかしたら、活動が終了した時に、教師が想定した目標など、あっさりと飛び越えた子どもの姿の中に、本当の目標が隠れているのかもしれません。
そんな面白いものを見逃す手はありません。
あれから30年余り。
あちらこちらで「主体的で対話的な深い学び」について語られています。
教師は、自分も含めて、自分の極狭い経験の中で、上手くいったこと、成功したことがすべてになってしまうという恐ろしい傾向があると思っています。
なので、それを戒めるために、できるだけ他者の考えも取り入れたいと思い、目を通すようにしています。
ただ、その中でどうしても
「教師がこうすれば子どもはこうなる。」というような考え方には、どうしても馴染めません。
きっかけだったり、環境だったり、教師が工夫しなければならないことも奥が深いのですが、それより何よりも、
一人一人の子どもが、
デコボコでも、
ゆっくりでも、
雪捲(ゆきまくり)のように自分の力で成長していく
姿に感動した経験が拭えないからなのでしょうか。