多くの教師は(大人たちは)
子どもは「教えないと学ばない」と考えています。
教える内容が予め用意され、
系統化され
時系列に並び
同じ学齢の子たちに
同じ空間で
決められた時間の中で
同じ目標に向かって
習得させるのが教師の役割だ、と思っています。
それができないのは指導の仕方が悪いか、子ども自身に何か問題があるかということになります。
公教育では「すべての子どもに教科書の内容を獲得させなくてはならない。」ので指導力向上のため、教師もスキルアップするために研修を行わなくてはなりません。
学習指導案を時間をかけて練り上げ、子どもの反応を予測し、どんなことが起きても掌中に収め、流れるような授業を展開できるスキルは教師のあこがれの的です。
また、落ちこぼれる子にたいしては、個別の支援をし、人手や時間をかけて学習内容を習熟させなくてはなりません。習熟度別学習などで能力別で分けて指導する必要もある。
…と、今の学校で観られるごく普通の話を書いてみました。
「そんな当たり前のこと、だから何なの?」
という声が聞こえてきます。
でも、
実は私はもうずーっと前からこの「当たり前のこと。」
にものすごく違和感をもっていました。
なぜなら、熱心に
「教えようとすればするほど、子どもは学びから逃げていく。」
という経験を少なからずしているはずだからです。
「こんなに丁寧に何度も説明しているのに…」とため息まじりになったり
「ちゃんと話を聞いていないからでしょ!」と怒りモードで子どもに怒りをぶつけたり
などという、
今考えると、とんでもないことを自分はしていたと冷汗が出ます。
「教えないと学ばない。」という大前提があるので、
教え方が悪いのか、
子どもの能力の問題なのか、
上の書いたような、系統性やら内容やら授業の目標、細かな発問の中身に至るまで、何を改善すべきなのか…
どうすれば「教えたとおりに学ぶのか。」
そういうことを考えるのに多大な時間を割いて授業研究が進みます。
たっぷりと指導案検討をしたところで上手くいかず、事後検討会では参観者から「やり方」の問題点を散々に指摘されて、イヤな気持になるので、大抵、授業研究を嫌いになってしまいます。
だから
「教えないと学ばない。」
言いかえると
「教えたとおりに学ぶものだ。」という、教師が(大人が)当たり前と思っていることがが違うのではないか、と考えてみる必要があると思うのです。
私がそういうことに違和感を感じるようになった根拠は、実際に子どもたちと過ごした中での出来事から
「そう感じざるを得ない。」
と思ったことが何度も何度もあったからです。
この辺のいきさつは「風と砂山の記憶シリーズ」でご覧いただけると嬉しいです。
また、最近では
今までの「みんな一緒に同じ目標に向かって」というのを
学校というシステムそのものから変えて行こうという動きも出てきているようです。
子どもは「教えないと学ばない。」???
上に例示した学校や本は、そんな問いの一つの答えを示しているように思えます。
このブログを読んでくれているのは教師の方が多いと思いますが、その中には私と同じ違和感を抱いている人が、きっといるに違いないと期待しながらこの記事を書いています。
一気に、学校やシステムは変えられないとしても、
そのもやもやを少しすっきりさせるために何かをしてみたいと思うのなら、
まず、
「よりよい教え方を追求する」ために、教師のやり方を観る授業研究から
「どんな時に子どもが学んでいるか」を観る、子どもや授業者から学ぶ授業研究
に、一刻も早くシフトしていくことから始めてみるべきだと思います。
今、私はへき地・小規模校教育に関わっていますが、 従来、へき地性や小規模のハンデをいかに都市部並みに引き上げるかという視点で研究が進められてきました。
しかし、今、盛んに言われている「自律的な学び」や「個別最適な学び」について現場で実践するには、小規模校こそ進めやすいと考えられます。
その理由として
教職員の意識改革や授業改善を断行しやすい
異年齢をはじめ、多様な授業形態に取り組みやすい
そして何といっても
子ども一人一人の学びのストーリーを把握しやすい
等が考えられます。
自分が、子どもたちからたくさんの学びを授かったのも小規模だったことが一因だったように思います。
それぞれの学校の校長先生のリーダーシップも問われますが、
都市部においても少人数化が進むことが明らかな今こそ、
へき地小規模校から都市部へ、未来への発信は益々注目される
に違いありません。
これから、そういう学校の様子を発信していくことができたらと考えています。