katoreen101の日記

学校教育と授業研究・アートと猫と…あとはあれこれ

コロナが変える学校教育の世界②〜コロナの時代の僕ら〜

5月になった

例年ならば、ようやく迎えた春を人々が満喫するシーズンなのに今年は全く様相が違う。

人の居ない公園には、いつもの年と変わらず木々に花が咲いているのが、際立って美しく見える気がする。

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市の感染者数が減らないので、

おそらく、臨時休校がまた延長されるにちがいない

 

先日、10名ほどの先生たちとオンラインミーティングを行った。

今のそれぞれの学校の様子や今の気持ちを語りあった。

 

オンラインでも、お互いの顔を見ながら色々な事を話すだけで、気持ちが和む。

 

みんな、不安なんだ。

みんな、先が見えないんだ。

 

再開に向けて準備する。

感染の状況が良くならず延期になり、準備が無駄になる。

無駄かもしれない、と思いながら、また次の準備を始める。

 

そんな事を繰り返しているのは

自分だけではないと思うだけでも、気持ちが楽になる。

 

先生たちの語りはどれも印象的だった。

 

みんな、日常の中断された時間を過ごしている。

ずっと、ずっと、心臓の鼓動のようにリズミカルに続いていた時間が弛緩してしまった。

間延びした波長の底に居るのに、いつものリズムを刻もうとする頭と身体に惑っている。

 

 

ある学校の先生たちは、子どもたちが分散登校してきた時に、50m走のタイムを取るため、分刻みのスケジュールを真剣に話しあっていたそうである。

運動会のために、評価のために、今やらないと間に合わなくなると。

 

いや、いや、いや

間に合わせようとしている運動会だって、通知表だって、いつも通りにあるかどうかも分からないんだ

って事に気付かない様はまるで、

 

身体を失っているのに、ルーティーンを繰り返している亡霊のようだと言うのは言い過ぎだろうか。

 

この時間の弛緩はいつまで続くの誰にも分からない。

リズムが戻ってきたときに、世界が今まで通りなのかも誰にも分からない。

 

学校がお休みの中にあって

お父さんと普段できない濃密な時間を過ごして、自転車の乗り方を教わり、見事に乗れるようになった子や

おじいさんの山小屋で暮し、薪割り名人になった子の事を話してくれた道北地方の先生の語り。

 

定時退勤や在宅勤務によってできた時間的な余裕の中で、じっくりと夫と話をしたり、ゆっくり食事や散歩をしたりできた事で、心が安らいだというという女性の先生の語り。

 

朝から晩まで時間に追いかけられている日常が途切れ、

ポッカリと空いた時間の広場で、伸び伸び過ごしている子どもも大人も、実はたくさん居るように感じた。

 

仲間の先生が勧めてくれた本を早速読んでみた。

 

パオロ・ジョルダーノ著

「コロナの時代のぼくら」

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日本よりも早く、コロナウイルス🦠の感染爆発という事態に見舞われたイタリアの科学者であり作家である青年の手記だ。

緊急事態になりつつある、と感じた2月の末から3月にかけて書かれたものである。

 

科学者の直感から、これはただごとではないと感じながらも、

直ぐには受け入れられない周りの人々(いや、著者自身も)の様子や

それに対してのジレンマ

 

感染の広がりについて科学者の目で冷静に分析する一方で

身体のみならず、人々の心や関係性を侵していることへの恐怖を淡々と綴っている。

 

イタリアでのできごとは、日本では断片的に報道されていたけれども

現地での混乱や恐怖は相当なものだったことが伺われる。

 

ジョルダーノの抱く不安は誰にとっても、もはや人ごとでない。

地球上の誰の足元にも忍び寄っている。

 

本編は3月始めの時点までで終わっているが、

3月20日の日付けで書かれた

「コロナが過ぎたあとも、ぼくが忘れたくないこと」

と題された「あとがき」に心を揺さぶられた。

 

混乱の最中にいる今、誰もが、忘れたくないことのリストを作るべきだと、

そして平穏な時が来た時にお互いのリストを見比べ、どんな共通点があるのか、そのために何かできることはないのか考えてみる

という提案をしている。

 

僕は忘れたくない。

ルールに服従した周囲の人々の姿を。そしてそれを見た時の自分の驚きを。病人のみならず、健康な者の世話までする人々の疲れを知らぬ献身を。

でも僕は忘れたくない。

最初の数週間に、初期の一連の控えめな対策にたいして、人々が口々に「頭は大丈夫か」と嘲り笑ったことを。

〜中略〜

僕は忘れたくない。

結局ぎりぎりになっても僕が飛行機のチケットを1枚、キャンセルしなかったことを。とにかく出発したい、その思いだけが理由であきらめられなかった、この自己中心的で愚鈍な自分を。

〜中略〜

僕は忘れたくない。

今回のパンデミックがやってきた時、僕らの大半は技術的に準備不足で、科学に疎かったことを。

僕は忘れてたくない。

家族をまとめる役目において自分が英雄的でもなければ、常にどっしりと構えていることもできず、先見の明もなかったことを。必要にせまられても、誰かを元気にするどころか、自分すらろくに励ませなかったことを。

 

そして

ジョルダーノはこの手記を通して読者にこんな風に問うている。

 

緊急事態に苦しみながらも僕らは

ーそれだけでも、数字に証言、ツイートに法令、とてつもない恐怖で、十分に頭がいっぱいだがー

今までとは違った思考をしてみるための空間を確保していかなくてはいけない。30日前であったならば、そのあまりの素朴さに僕らも苦笑していただろう、壮大な問いの数々を今、あえてするために。

たとえばこんな問いだ。すべてが終わった時、本当に僕たちは以前と全く同じ世界を再現したいのだろうか。

 

ならば、私たちも自分に問うてみよう。

この状況が落ちついてきた時、本当に自分は以前と全く同じ学校を再現したいのか。再現すべきなのか。

この状況が落ち着くことはなく、以前に戻れないとしたら、何から手を付けたらいいのか。

 

そして、そのために「忘れたくない」事リストを挙げておく必要があるのかもしれない。

 

 

追記

パオロ.ジョルダーノの「コロナの時代の僕ら」は「あとがき」のみ、現在ネット上で読むことができます。

https://www.hayakawabooks.com/n/nb705adaa4e43

 

この手記が書かれたのは3月末なので、イタリアの状況はそれからさらに深刻になる途上です。

その後のジョルダーノの記事をネット上で読むこともできます。(一部有料記事)

https://courrier.jp/news/archives/197213/

 

 

コロナが変える学校教育の世界①

ほんの2~3か月前には想像できなかった

まるで、SFのような世界の中を

ゆっくり

ゆっくり

毎日が進んでいる。

 

当たり前の日常が歪んでしまい、空が晴れている日も、どんよりしているように感じる。

本当にウイルスがこの身に迫っているのか。

それとも不安に苛まされているだけなのか。

 

メディアに登場する感染症の専門家と言われる人々の数多の言葉。

どれを信じればいいのかわからない。

 

ここ1〜2週間が山だ。

ここを乗り越えればすぐにまた元の日常が戻ってくる。

そんな言葉はもう誰も信用していない。

 

情報は誰かの都合で書き換えられているに決まっている。

自国の国際社会での地位や

自分のための大統領選挙や

誰かの思い通りの統治のために

 

どう考えても窮状にあるというのに

 

医療関係者でもない

ウイルスの研究者でもない

薬品開発の技術者でもない

インフラや物流を支える能力もない

生活必需品の生産もできない

そんな自分は、はっきり言って何もできない。

「みんなでコロナに打ち勝とう!」

といわれても、私は何に打ち勝てばいいのかわからない。

 

ただ、

おろおろと

「どうしたもんだろう。何が起きるのだろう。」と心配し

でくの坊のように日々やり過ごしている。

周りの人と

「心配だね、良くなるまで辛抱だね。早くみんなで会いたいね。」

みたいなことを言いながら

この困難が過ぎ去るのを

やり過ごして、

いろんなことに折り合いをつけて何とかやっている。 

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人が観に来なくても

見事な花を今年も咲かせている桜の美しさに癒されたり

庭先の草花を眺めたり

 

外出を自粛するように言われて

窓から顔を出して、真っ暗になるまで見続けていた夕暮れの色に感動したり

昔、好きだった音楽を聴き返してノリノリになったり

固くなった身体を不器用にストレッチして深呼吸したり

 

そんなことをして

ただただ、やり過ごしている。

 

私には「打ち勝つ」ことはできない。

でも「やり過ごす」ことができるのなら

もう一生懸命にそれをやり切りたい。

いろいろなことに折り合いをつけて。

 

これから、一体どうなるのだろう。

誰が正解を教えてくれるのだろう。

 

 

 学校は正解を教えてくれるところだったのに

いつ学校が再開されるのかさえ、学校に聞いても正解を教えてはもらえない。

 

 

いつ始められるかは誰にもわからない。

 誰も正解を知らない。

 

この世は正解のない事だらけ

本当はそれが当たり前だったのだけれども、

そこに忽然とスポットライトが当たってしまい、立ち尽くす。

 

 

そこに答えを求められても

出てくるのはどうしても

なんとかかんとか、

どうにかこうにか、

皆で知恵を絞って「やり過ごす」ことを

折り合いをつけて、必死でやりきることしかない気がする。

でも、

それは決してマイナスなのではなく

むしろ必要な能力なのではないだろうか。

 

今こそ

「不確実性への耐性」や「negative capability(ネガティヴ ケイパビリティ)」

について深く考える時ではないかと思う。

 

学校が休みになって時間ができたのであれば、音楽やアートや身体との対話のような

「negative capability(ネガティヴ ケイパビリティ)」の世界に浸ってみるチャンスかもしれない。

 

もう一つ

教師としては、これだけは子どもと一緒に考えたいと思うことがある。

 

それは

この困難をやり過ごす事ができるかどうかは

対立や非難や悪者探しではなく

 

一番の弱者は誰か、ということを思い

そこに向って私たちはどう力を合わせられるか、にかかっているのではないか

ということである。

 

 

※「negative capability(ネガティヴ ケイパビリティ)」(「負の能力」「陰性能力」。)どうにも対処のしようのない、どうにも答えの出ない事態に耐える能力。」または「性急に証明や理由を求めずに、不確実性や不思議さ、懐疑の中にいることのできる能力。」

箒木蓬生著「ネガティブ ケイパビリティー 答えの出ない事態に耐える力」より

  

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対話で出会いなおす~「やり直し」を迫られる時~

新型コロナウイルスが世界を変えている。

日本が、世界が、

今まさに歴史的な出来事の渦中に突入してしまった感がある。

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そんなことになるとは思わずに、

あたかも自分はそこそこの物知りで、物事を達観したような調子でこのブログにも自論をアップしていた。

すでにweb上からは削除していたが下書きをプレビューしてみた。

その時の憶測は、今現在の状況とは全く違ったものになってしまっている。

 

www.katoreen.com

新型コロナウイルスが懸念され始めたのは、ほんの2~3か月ほど前のことである。

その間、

希望的な観測や

「自分の経験」という極小な情報に基づいたに過ぎない「正常性バイアス」、

 

そんなものを頼りに高をくくっていたようなことを語っていたことは、恥ずかしいという感情を通り越して、自分の小ささを改めて知り、むしろ痛快(快というのは不謹慎か…)な位である。

新型コロナの影響でフリーランスの3割以上が「月5万円以上収入が減った ... 

いろいろなことが完全に予想を上回っていく。

ということは、未来が見えない。

未来が見えないということは不安でしかない。

 

どんな情報が正しいのか、何を信じればいいのか。

毎日更新されるニュース、

昨日はごく身近な、自分の職場の中での感染という報にも触れ、全く他人ごとではない。

 

自分の行動や、万が一の時の対処について真剣に考えなくてはならない。

 

人と人との接近が制限され、学校を始めとしたコミュニティーが閉鎖されている。

こんな中で、どうしたらいいのかということを本当は対話したい。

 

近年発達した、ネット上のコミュニケーションツールの有効な活用も必要に感じる。

 

医療従事者でもない、薬剤の開発もできない。

そんな無力な自分にできることは一体何なんだろう。

 

コロナが流行の兆しを見せ始めた2か月少し前の出来事を思い出す。

 

小学校6年生の算数の授業をもっていた私は、卒業を間近に迎えた子どもたちと、休み時間よく色々な話をしていた。

 

その常連の一人、Rさんが息せき切って教室に入って来るなり

「先生、怖い。コロナ、不安だよ。」

と泣きそうな顔で訴えてきた。

「大丈夫だよ。心配しないで、手洗いをしっかりすればいい。今でもインフルエンザの方がよっぽど心配だよ。」

と、私。

もちろん、Rさんを安心させようという気持ちではあったが、実際そんな風に思っていた。

「でもね、先生、コロナは治療薬がないんだよ。ワクチンもないって。これって大変じゃん、やっぱり怖い。」

「大丈夫、大丈夫。」

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そんな会話をした少し後に、学校は臨時休業に入ってしまった。

 

よく考えもせずに「大丈夫。」と言い放った私。

やっと、自分の見識の甘さを知った私。

 

分散登校の時にRさんと話す機会があった。

「先生、全然大丈夫じゃなかったじゃない!」

その通りだ。

「ごめんね。先生は自分の経験にないことだからって、ちゃんと調べてないで、いい加減なことを言ってしまった。謝るよ。」

そして、100年前のスペイン風邪のパンデミックについて等、感染症について自分なりに調べたことについて子どもたちと対話した。

 

私はRさんとの対話を通して自分のいい加減さ、

年齢を重ねた者としてのある種の「上から目線」をとても反省した。

 

子どもの感性の方がずっと正しかった。

子どもたちはちゃんと危機を感じ取っていたんだ。

 

私はこの年になっても「やり直し」を繰り返す。

何度も何度もきっとこれからも「やり直し」を繰り返す。

 

そんな、

些細なことかもしれないけれど

当たり前かもしれないけれど

 

子どもたちとの対話のおかげで「やり直し」できたことをすごく重く感じている。

 

コロナ禍は、それはそれは一刻も早く治まってほしい。

でも、まだまだこれからかもしれない。

新しい困難の時代が待っているのかもしれない。

 

私はやはり、たとえ対面でなくても、何らかの方法で

他者との対話で事象に出会いなおし、

 

小さき自分を「やり直す」ことをおずおずとやっていきたいと思っている。

 

 

対話で出会いなおす 〜オープンダイアローグに学ぶ教師のためのツール考察③〜

久しぶりの投稿です。

 

このシリーズ、やめてしまったわけではありません…

全然そうではなく、まだほんの入り口、この奥深い世界にようやく気がついた所です。

 

すいません、ちょっと色々寄り道していました。

 

…海外ドラマにはずいぶん時間を割いてしまいまったのはその通りですが…(ちょっとチェルノブイリには力が入ってしまいました。)

その間にも中井久夫を読んだり、橋本治を読んだり、

 

あと、オープンダイアローグに関わっては

「あなたの心配ごとを話しましょう〜響きあう対話の世界へ〜」(トム・エリーク・アーンキン、エサ・エーリクソン著 日本評論社)

を読みながら、実際の教育の現場での具体的なやりとりを想定したりしていました。

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この本、そんなに厚くもなく、文字も大きく、一見とっても読みやすそうなのですが…

実は私にとってはなかなか厄介でした。

 

1文目と2文目がつながらない、

単語は平易なのですが全体の意味がよくわからない。

他の言い回しを自分なりに考えて置き換えてみないと言いたいことがわからない。

置き換えられるうちはいいのですが、結局わからない部分もあったり。

 

つまりは、

私の頭がすこぶる悪いのか(これは当然否めない。)

訳者の方にはとてもとても申し訳ないのですが

日本語訳が私の頭では、スッキリといかない。

 

 

何か、テレビの「同時通訳」の人の言葉を読んでいるような

Google翻訳の文を読んでいるような

こういう時、原書が読める語学力があると本当にいいのだろうな、とこれまた途方もない、無い物ねだりをしてしまうのでした。

 

結局、読み進むのにかなり時間がかかってしまいました。

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しかし、わからないものはわからないと、そこをスキップして読んでも価値のある内容でした。

いや、本当に。

 

その中から、今日は次の話を紹介したいと思います。

 

 

他人のことが心配で、状況が悪い方向へ行ってしまうのではないかと気がかりなら、そのようなあなたの心配を和らげるために、その人に直接助けを求めてください。つまり、助ける側が助けを求めるのです。

・もし心配ごとがあるなら、もちろん、あなたは状況が悪い方向に行かないように何とかしたいと思います。

・しかし、自分の心配を伝えることをあなたはためらうかもしれません。相手が傷ついてしまうかもこともあり得ます。

・つまり、あなたは助けたいと思いながらも、相手との人間関係も守りたいと思っているのです。

・あなたが心配事を伝えないのなら、状況は悪化しあなたの心配事はさらに大きくなるでしょう。相手との関係も良くなりません。

・では、もし相手を尊重しながら心配ごとについて話し、ダイアローグによる協力ができるように努めたらどうでしょうか。これはあなたの心配ごとが鎮まるように相手に助けを求めるということです。(p11)

 

 

日本の読者に向けてと題して、著者トム・エリーク・アーンキルのプロローグです。

のっけから、発想の大転換。

 

つまり、支援者と被支援者という概念を根底から覆しているのです。

支援するものされるものという上下の関係は問題の解消に遠回りである事はわかっていたものの、

フラットの関係をさらに推し進めて立場が逆転!

 

助ける側が助けを求める

 

私は、この話を読んで、ある場面を思い出しました。

 

私ごとで恥ずかしいのですが、

私の老父と、父を支援していたホームヘルパー主任HさんとケアマネージャーMさんと家族での話し合いの場面でのことです。

 

高齢者にありがちな気難しい父を抱えて、私と弟はイライラしがちでした。特に何だかんだ理由を付けては、食事をきちんと取らずにいることを心配して

「ちゃんと食べなければ駄目じゃないの。」言うと、父は決まって不機嫌になってしまうのです。

 

その日も父がせっかくの話し合いの場で怒り出すのではないかと気が気ではありませんでした。

ところがそれは全くの杞憂に終わりました。

 

話し合いの中で、支援者のHさんは、難聴の父に分かりやすい、よく通るはっきりした口調で

「私の心配ごとはGさん(父)の低体重なんですよ。ちょっと痩せすぎているのが心配なんです。」

と言いました。

するとそれまで仏頂面をしていた父が急に顔を上げて

「そうなんだよな。俺もそれは気になってるんだよ。う〜ん、やっぱりなんとかしないとなあ。う〜ん。」

といつの間にか前のめり。

 

ケアマネージャーのMさんは

「そうなんです、私もそれが本当に心配なので、プランを考えてみました。Gさんに協力してもらえると安心なんです。」

と言いながら、プランの説明を簡潔に話してくれました。

 

父はそのプランの説明に耳を傾けながら

「そうだなあ、できそうだなあ。体重増やさないとなぁ。」

と呟き、プランを受け入れたのです。

 

何を言っても

「俺の勝手だ、ほっとけ。」と言っていた父が、自分の健康に前向きになったことに家族は驚きを隠せませんでした。

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今考えると

 

このやりとりは、正に

トム・エリーク・アーンキルが提案した

 

助ける側が助けを求める

 

そのものでした。

 

 

教育の世界では

「教えるものー教えられるもの」「育てるものー育てられるもの」という役割の中で

その間でやり取りされる言葉は時に「されるもの」たちを抑圧してきました。

「私たちの言うことは正しいことなので、あなたたちがそれに従うことが正しいのです。」

というメッセージは、暗に

しかも無自覚に蔓延しています。

 

しかし、

福祉の世界では

本来「支援するもの」の専門家たちが自然に「支援させるもの」が中心にいることをしっかりと捉えることで

事が円滑に進むことをすでに知っているのだと深く感心させられたのです。

 

助けるものが助けを求める

 

この言葉の中には、教育の世界において

子どもと保護者、教職員やSC等の支援者たちの間にはばかる高い壁を取り去る

大きなヒントがあるように思うのです。

 

参考文献 

「あなたの心配ごとを話しましょう 響きあう対話の世界へ」トム・エーリク・アーンキン、エサ・エーリクソン著

日本評論社 2018年

 

 

 

 

 

 

ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき3つの理由

 

このところ

すっかり海外ドラマのトリコになっている。

 

もともと映画は好きだったが、ドラマはそれほどでもなかった。それが、アメリカのテレビドラマのおかげで、今や毎日楽しい。

映画だと、せいぜい2時間程度。その完結性もいいのだけれども、普通、ドラマはもっと尺が長い。

長いものだと1シーズン10エピソードが何シーズンも続いていく。

1日2〜3時間も平気で観てしまう。

そんなことを毎日していると、まるで自分がドラマの中を生きているというような気にもなってきてしまうのだ。

 

その中にあって、今日紹介する『チェルノブイリ』は全5話。

1話から5話まで、トータル330分。

一編の映画のような作品だが、一般的な映画の長さの2時間で描かれていたらきっと消化不良になったに違いない。

 

この話を描くにはこの時間はどうしても必要だったに違いないと思う。

そしてその330分、全てが緻密で重くてディープな世界、

楽しい、というのとは明らかに違う世界だ。

 

自分のブログで、ドラマの紹介というテーマははじめてだが、この作品についてはどうしてもどうしても一言書かずにはいられなかった。

 

 

『チェルノブイリ』はアメリカHBOで2019年制作されたテレビドラマ。

 

人類史上最悪の事故とも言われている、誰もが知っているチェルノブイリ原子力発電所事故という史実を基にしているドラマだ。

 

Wikipediaでは次のように紹介されている。

 

冷戦下の1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故の際、事態を隠ぺいしようとするソビエト政府の対応や、事故がもたらした人々への影響、被害の拡大を少しでも抑えようと奔走した人々の苦闘を描く。

 

今年度のエミー賞の主要3部門を含む10部門を受賞し、アメリカではテレビドラマの最高傑作という呼び声が高い。

 

33年前の4月に起きたこの事故。

日本でも放射線の影響について急激に不安が広がり、小さい子をもつ友人たちが特に心配していたのを私もよく覚えている。

遠く離れた日本にも影響があったくらいだから、近隣諸国を巻き込んで大変に大きな影響を与えたに違いない、くらいの認識は勿論あった。

 

でも、あの日あの時に何があったのか、何故そんなことが起きたのか、そんな事は全然知らなかった。

知らなかったけど、特に知りたいとも思っていたわけでもなかった。

 

というか、もう「昔のこと、遠い国でのこと」つまりは他人事と感じていた。

 

 

そして今、全5話、時間にして(330時間)観終わった今。

 

これは昔のことではなく「今のこと、今も進行中のこと」で、遠い国のことではなく「正に自分の国のこと」かも知れなくて、

他人事では到底なく、自分たちが当たり前と思っている現実や日常はとても脆弱で、嘘や矛盾の上に成り立っているのかもしれない。

善良で真っ当に暮している(と思っている)自分や自分の周りの人達も、嘘や矛盾をつくりだしている当事者なのではあるまいか。

そんな中でも、恐怖や不安に立ち向う人間の底力や、やるべき事を淡々とやり抜く普通の無名の人々がいて嘘や矛盾を贖っているので今があるのだ。

 

などという事を深く考えさせられている。

 

いやいや、これはソビエト連邦という特別な政権下でのとんでもない話、しかもドラマなのだから、殆んどがつくり話なのだ。

とは、全然考えられない。

 

とにもかくにも

 

要するに、私が言いたいことは

 

このドラマは凄い!

本当に凄い!

みんな、この作品を観て欲しい、絶対観て!という事なのだ。

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それ程までに勧める訳を3つほど考えてみた。

 

ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき理由①

○エンターテイメントとしての完成度の高さ

・とにかく、映像が凄い。

 史実を描くためはリアリティーが重要だと思うが、どの場面を切り取っても隅々まで、その時代やその場の空気感がビンビン伝わってくる。

それを追求するためにウクライナに実存する原子力発電所の廃炉でロケを行ったとのこと。

原発城下町だったプリチャピの町の様子はCGを駆使して描かれたということだが全くCGだとは思えない。

爆発し破壊された原子炉のから夜空を切り裂くように発しているコバルト色の光の柱、

強烈な放射線を全身にどっぷりと浴びて全身がドロドロに朽ちていく消防士の姿。

原子炉建屋の崩れ落ちた屋根の上に散乱するはかりしれない放射線量を放つ黒鉛の残骸一つ一つの配置にもこだわりが見られる。

何十万人のも復旧作業員が野営する過酷な現場の、余りにも簡素なトイレの様子などは、ほんの2〜3秒しか描かれていないにも関わらず見事につくり込まれていて、短いカットだからこそ印象深い。

現場と対照的な労働党や原発の上層部が自らの保身や国の体面を一番に対応策を話し合う会議室。

椅子や机、ドアや床、使っている紙や筆記具に至るまで、本当にこういうところだったに違いないと唸らせられる。

 

・そして音楽も凄い

 放射線は眼に見えない。その場がどれ程に危険な場所なのか分からない。

激しい放射線を放つ剥き出しの原子炉の様子を見に行く原発の技師たちや、高濃度に汚染された冷却水プール入っていく作業員。異様な光を放つ発電所を、見晴らしの良い場所から見物していたプリチャピの町の人々の上に降り注いだ死の灰。

それを掛け合って遊ぶ楽しそうな子供達。

映像では描けない眼に見えない危険を表現しているのが「音楽」だ。

低重音を中心にした、音楽というよりもはや効果音のようなサウンドが恐怖を果てしなく増大させる。

 

・役者もシナリオも当然凄い

 全5話は事故を軸に、それぞれ違うテーマを中心に描かれていくために主役格は何名かいる。

一人ひとりの役柄は、実在した人物をとことん忠実に演じていると感じさせられる。派手なアクションなど何もない。

地味だが、さすが、アメリカやヨーロッパで活躍する演技派俳優陣。

 全編を通してセリフが少ない。

特に第4話で中心に描かれていた、地方から動員された若い作業員には、最小限のセリフしかなかった。

その分、表情や動き、他の登場人物との短いやり取りやその絶妙な間での演技が圧巻だ。映像と役者の演技力を引き出すために余計な言葉は不要なのだ。

一転、第5話の裁判のシーン。レガノフ博士が真実を明らかにする明解な証言は、魂のこもった長セリフ。

この対比で物語は一気にクライマックスへ向かう。

計算されたシナリオは本当にお見事。

 

ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき理由②

○「遠い国のこと・昔の他人ごと」ではなく、「今・ここ・自分」の問題だということ

原子力発電所の事故については国際原子力事象評価尺度(INES)という指標がある。事故の影響度をレベル0からレベル7までも8段階で示している。

この指標の最も深刻なレベル7に該当する事故は人類史上2件しかない。

一つはチェルノブイリ、そしてもう一つは2011年3月11日に起きた東京電力福島第2原子力発電所の事故である。

たった7年前、世界のどこでもない、我が国での出来事。

あの日、大地震の後、私は一晩中テレビで現実とは思えない信じられない被災地の映像をみていた。

翌日の土曜になって原子力発電所から煙が立ち昇っている映像が流れて背筋が寒くなった。

テレビでは「水蒸気爆発で建屋が吹き飛んだ。」と繰り返していた。

水蒸気で吹き飛んだだけなら、原子炉には影響はないんだ、深刻なことではないんだ。そんなふうに思っていた(思おうとしていた)ように記憶している。

 

しかし現実には

 

すでに大気中・土壌・海洋・地下水へ、大量の放射性物質が放出されていたのだ。

 

複数の原子炉(1,2,3号機)が連鎖的に炉心溶融し、大量に放射性物質を放出するという、史上例を見ない大規模な原発事故になっていたのだ。

 

私も、私の周りの人たちも完全に「正常性バイアス」に陥っていた。

 

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手元に2011年3月12日の新聞が残っている。

原発についての記事を見て欲しい。

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当時の菅首相のメッセージには

「原子力施設につきましては、一部の原子力発電所が自動停止しましたが、これまでのところ外部への放射性物質などの影響は確認されていません。」

とある。

原発についての別の記事と見比べても、余りにも軽い扱いに驚きを隠せない。

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実際には『チェルノブイリ』と同じレベル7の史上最大の事故が起きていたという事実を私たちが知るのはずいぶん後だった。

ドラマで描かれていたような、嘘で事実を未だに知らされていない、なんて事はある訳ない、そんなことがあるなんて信じたいくない。

 

けど、

 

ドラマの中で、様々な人が自分の上司に繰り返し言っていた言葉「心配ない。事故は完全にコントロールされている。」というのを聞くたびに

 

安倍晋三が、東京オリンピック誘致のスピーチで

「フクシマの事故は完全にコントロールされている。何も心配ない。」

 

と言っていたのを思い出す。

 

そしてまた、背筋が寒くなる。

 

嘘がまかり通り、何が起きたか本当のことを語ろうとする人々はKGBなど国家に逮捕されたり役職を剥奪されたり、追放されたりしていくシーンも印象的だった。

 

これと同じようなことが日本では起きない(起きていない)なんて、今の政治を見ていると、誰も思うはずがない。

 

嘘がまかり通るのが「今、ここ、自分」がいる現実の世界。

 

そう思うと、今度は怒りで背筋が伸びる。

 

ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき理由③

○エネルギー問題の矛盾について考えさせられる

一旦事故が起きてしまうと甚大な被害が出て、計り知れない影響が出るという事は嫌というほど誰もが知っている。

ドイツのように原子力発電をやめてしまう国も出てきている。私だって一旦事故が起きたら取り返しがきかない危険な原発なんて、なくなって欲しいと思っている。

 

原発反対派の人たちは、原発の利権で潤っている人たちのせいだと批判する。

関西電力の金品受領問題なんて、まるで昔の悪代官と越後屋のようで真っ先に成敗しなくてはならない。

原発がなくなっても国内の電力は賄えると主張する。

 

でも、

その分を何で賄うのだろう。

 

火力発電だってダメだ、という人たちもいる。

 

CO2の排出に積極的でないことを指摘された我が国の環境大臣は各国から指摘されても、何も解決策を示せなかった。

 

2018年の北海道での地震によるブラックアウトを引き起こしたのは火力発電所が被災したため。

 

本当に不便だった。

あの1日半、ずっと不安だった。

 

これが長引いたら、不便どころかどれだけ被害が出るか誰にも想像できない。

 

北海道の冬を電力なしにどう乗り越えるのか、誰にも考えられない。

 

とにかく、電力がなければ今の生活はまるで成り立たないのだ。

何百年も昔の生活に戻らなければ生きていけない。

 

地球温暖化の防止のためCO2を排出する国を批判しているスウェーデンの少女でさえ、彼女の毎日の衣食住も、彼女が読んだ本も、受けた教育も、世界に配信しているツイートだって電気のおかげだ。

 

今書いているブログだって電気があるおかげ。

 

エネルギーと環境の問題は簡単ではなく、無知で不勉強な自分が語るべきではないかも知れない。

 

悪者を見つけて批判するのは簡単だけれども、自分だって知らず知らず悪事に加担している。

 

自分たちは安全な所にいて、

便利を供給している者たちを「やり方が間違ってる、どうしてくれるんだ。」と批判する。

 

誰だって、人を責める言葉を淀みなく叫べるんだ。

 

でも、

 

そんな、真っ当で善良に暮らしている(と思っている)自分たちだって当事者なのだと考えれば、

たとえ正解を見つけられなくても、この矛盾を少しはちゃんと考える責任があるのではないか、

 

と言うことも考えさせられた330分間だった。

 

 

 

 

オープンダイアローグのセミナーで東大に行った話〜その1

12月1日、オープンダイアローグ・ネットワーク・ジャパン(ODNJP)主催のセミナーが行われ、参加してきました。

場所は東京大学本郷キャンパス鉄門記念講堂、医学部にあるホール。

日本の推しも押されぬ最高学府、しかも医学部の建物に入るとあって緊張…

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土曜日の大学は人影もまばら。

この医学部の各階では、いったいどないな実験をしているのだどうと思うと、緊張ではなく、もはや恐怖。

場違いすぎる私が迷い込んだことで、眠っていた妖怪が目を覚ますのではないかとドキドキでした。

 

さても、実際の会場は写真の古い建物の裏の近代的な14階建ての最上階にある300人ほど入る広い階段教室、妖怪と思しきは、皆さんちゃんと人間だったようなので一安心。

 

ここが初めて入った東京大学!

それだけなのに「エヘン!」という気分になった軽〜い私でした。

 

受け付けをしたらレジメも何もなく、好きなところに勝手に座ってくださいという、なんともイージーな雰囲気。

この日のプログラムについてもペーパーは一切なく、プレゼン画面に映し出されるだけ、こんな感じでした。

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プログラム2番の4名の各20分ずつの講演が圧倒的におもしろくて、

どの人の話もじっくり、もっと時間をかけて聞いてみたいと思わされました。

 

で、どんな内容かという事にすんなり話をすんなり進めればいいのですが、

 

そもそも、このセミナーのタイトル

「対話の現象学と人類学」

なんです。

 

何が現象学で、何が人類学なのか。

 

精神医療の分野のセミナーで、参加者も精神科医や心理士、精神疾患を抱える当事者や家族だし。

で、一応色々あるけど真ん中のテーマは「対話」で

 

4人の講師の話は全部おもしろいのだけれども、噛み合っているようで、そうでもないようで、

「ん?なんだ??」と思うこともあるのです。

 

…思うに、オープンダイアローグ(以下OD)の要素の一つ「不確実性への耐性」の上に成り立っている、

…例えるのなら、巨大な「対話」という立体ジグゾーパズルのあっちのピースとそっちのピースをはめててみよう、という試み

 

そして様々な立場の参加者が、自分で「対話」について深く考えるきっかけにしていくためのセミナーなのだ

 

という印象を得たのでした。

 

 

という長い前置きをした上で、トップバッターの斎藤環氏の話を紹介します。

 

斎藤氏はODを日本に広めた人で、朴訥とした語り口ながらも、カリスマっぽい風貌が印象的でした。

 

タイトル「浅層心理学のススメ」

 

ある哲学者によるOD批判について

・ODは秘密を作らせない

・ODは無意識と向き合わない

・ODはコミュニケーションから「深さ」を消滅させる

つまるところこの批判は「ODは精神分析的でなく、真理の審級を軽んじているのではないか」ともなろうか

 

ODは無意識と向き合わない?

・「分析」と「解釈」は推奨されない

・「無意識の真実」より「非真実かもしれないナラティブ」が重視される

・「無害な非真実」(VONEGATTO『猫のゆりかご』)の価値

・→浅層心理学(リュムケ/中井久夫)の可能性

・個人精神療法は人工的、N対N(複数人対複数人)が対話の本来の姿(SEIKKURA/神田橋)

 

・「つながりによる治癒」という(ODに対する)誤解

 ポリフォニー≠ハーモニー つまり、ポリフォニーはハーモニーやシンフォニーではない

 

オープンダイアローグと精神分析治療文化として

・ODのルーツの一つが力動精神医学(精神分析的)

・しかし、ODは「精神分析」に否定的な態度を維持している

 ◇解釈の禁止

 ◇「抵抗」の尊重→「徹底操作」しない

 ◇「転移」や「逆転移」を問題にしない(そもそも起こらない。それらは治療するもの、されるものという関係において起きる)

 ◇「治療的中立性」を重視しない

 ◇真理の審級として「無意識」を重視しない

 ◇そもそもシステム論が精神分析と対立的である

 

治療チームとネットワーク

・チームでネットワークを修復する

・2者関係の密室からの開放

・権力構造のフラット化とネットワークの参加→転移の起こりにくさ

・治療者による抱え込みや過度の依存関係が生じにくい

・「聴取」の文脈の複線化(≒ポリフォニー)

・「中立性」からの開放→治療者の変化

 

・垂直方向のポリフォニー=内言

・vertical polyphony =inner voice 

 

「浅層心理学」の可能性

・「病理モデル」からの脱却

・個人療法からの脱却

・転移と主体性の関係

・「語られたこと」のみに照準

・ネットワークの重視

・「身体の有限性」活用

・心理的OSよりも気質的OSの活用

・ポリフォニー

 複数の非真実(余白あり)>>単一の真実(余白なし)

 

治療において大切な5つの要因 SPORN

◇S  スペース 空間 余白

◇P ペース 進度

◇O opportunity  機会

◇R ルート 通過点

◇N ナラティブ

 

 

と、まあこのような内容の講演でした。

 

教育分野からの参加の私としては、教育現場でも共通する考えを掬いとるような聞き方を自然にしてしまうのです。

最後の治療において大切な5つの要因 SPORN。

 

これを治療ではなく「授業」に置き換えてみると…

 

◇S  スペース 空間・余白 =教室の環境、学びの多様化

◇P ペース 進度     =学習者それぞれのペースの尊重

◇O opportunity  機会   =学ぶ動機、教材や仲間との出会い

◇R ルート 通過点    =一本道ではない学び

◇N ナラティブ      =一人一人の学びのストーリー

 

治療と授業を結びつけるのは些か乱暴な気はしますが、

どちらも人を「今いる地点から、新たな広がりのある世界へ変容させる」

 

ために大切な要素はどうしたって、似かよってくるのだという事に、また改めて気付かされた思いでした。

 

 

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セミナーが終わったのは日没直後。

医学部ビルの14階の窓からは夕焼け空に浮かんでいる富士山のシルエットが見えました。

 

古今東西の日本の天才たちもここから富士山を眺めたのかな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

対話で出会いなおす 〜オープンダイアローグに学ぶ教師のためのツール考察②その2〜

実は、②-その1を書いた直後、オープンダイアローグジャパンのセミナーに足を運びました。

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私にとっては大変学びになったセミナーでした!

そこでの話や感じた事は、また後に述べるとして、一点、追記したいことがあります。

「オープンダイアローグ」自体は精神医療や臨床心理の領域の話です。

私がこのタイトルの中で書いている事は、あくまでも「オープンダイアローグに学ぶ」取組の一例に過ぎません。

セミナーの話の中には

「セオリー通り、全てやってはじめてオープンダイアローグと言える」

という事務局側の意見もあったのですが、そこのところはご容赦頂きたいと思います。

 

 

さて、さて、前回の続きです。

 

S先生は低学年の担任をしていて、クラスの子どもたちを私は知りません。

しかし、子どもの描いた絵があれば、子どもを語り合えるという事を私たちは知っていました。

 

今回鑑賞した絵は「ひみつのたまご」といいます。

自由にたまごを描き、それを割ったら広がる想像の世界を描くという、とても夢のある題材です。

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S先生は今年度からもった子どもたちやクラスの様子を話しながら、教室に案内してくれました。

廊下の掲示板に子どもたちの絵が貼ってある。色とりどりの卵からはじけた不思議な世界。

それらの前に立っただけで心が弾みます。

 

 

画用紙からはみ出すような大きなたまご。

水玉や花柄があったかと思うと、真っ青に塗りつぶされていたり。

そこから生まれてきたものたちの世界も吹っ飛んでる!

魔法使いや猫や恐竜、それらと遊んでいる自分や家族、友達。

馬の背中に乗って宇宙に行ったり、ジャングルやサバンナに駆け回ったり。

 

おもしろいなあ、たまごから地下鉄が生まれるなんて。そう言えばLくん、お父さんと地下鉄に乗ったって言ってたんですよ。きっと楽しかったんですね。

 

Kちゃんのこの絵、よく観たらこの牛、耳が3つありますよ、あ、真ん中のは耳じゃなくてツノ?あ、牛じゃなくてユニコーン?ファンタジーの世界で遊びまわってますね。

 

この絵、迫力がありますね、ほんと、動物に興味があるDちゃん、さすが。この頃何でも自信がついてきたみたい。このライオンも堂々としていますよね。

 

絵を語ることはその子を語ることです。

しっかり描き込まれている絵からはたくさんの声が聞こえてきます。

 

一方で
そうではない、気になる絵にもどうしても目が行きます。

そんな私の視線を見て、S先生の語りが始まりました。
 
この学年の子どもたちは、今まで出会ったことのないような、手のかかる子が多くて年度当初は手を焼いたんですよ。
 
話を落ち着いて聞けない、
作業も最後まで続かない、
集団で行動する時にはみ出してしまう、

授業中に離席してしまう事もしばしば。
 
学ぶことへの興味をどう持たせるか、日々悩んだんです。

 
私たちの目に留まるのも、そういった子どもたちが描いた作品でした。
 
たどたどしい線だったり、広すぎる余白だったり、
描かれているものがあまりにも細やかなサイズだったりしている作品です。

 

いわゆる造形的な技能という面では、とてもじゃないけど、いい評価はもらえないような絵です。
 
 
 
Fくんは進級した当初、全く落ち着きがなく、何かに集中できなかったんです。
この絵も何を描いたらいいかわからなかったようで、取りあえず、しま縞模様に順番に色を塗ったんですよ。

 
でも、よく見ると枠からはみ出さないよう、色も順番に変えて、気を付けたんだなあ、
 
ここは没頭してできたみたいですね。
がんばったんだなあって、思います。
 
Rくんはひときは幼い印象の子で、1年生の時は先生に注意される事も多かったようです。
 
私も、出会いの時はあまりのテンションの高さに…あぜん…
でも、面白い子で、たくさん笑わされましたよ

 
 悩んでいると言いながらも、子供との日常を基本ハッピーに過ごしているS先生は笑顔で話す。そう言いながらも、Rくんとの関わりは葛藤が多かったことに違いない。
気に入らない事があれば授業中でも大声を出したり、立ち歩いたり、友達に乱暴な事をするのもしばしば。言って聞かせても同じ事の繰り返し。やってみせたり、褒めたり叱ったり。
そんな中でも、一緒に遊んだり、笑ったりしてきた。
 
ほんとに、ほんっとに、面白い子なんです。是非あって欲しい、きっと好きになりますよ。


 
Rくんを語るS先生の顔は生き生きしていて、しかも優しいのです。
 
Rくんは、絵を描くのが嫌いだったんです。描きたくないって投げ出していた。みんなが自由に書いているのをみてちょっとずつやるようになってね、
 
この絵も卵にとてもこだわっていて。割れた卵から出て来るものを一つ、また一つと描いていくうちに結局、こんなにたくさん描いたんです。
 
やっぱり、描きたいものを描いてもいいって、大事なんですよね。
 
上手とか、そういう事でなく、こうやって着々と描いたこと、そうしてそれが作品として残ること、これって大事なことなんだと思います。
 
こうした経験が、絵を描くということだけじゃなくていろんな事を成長させていくんじゃないかって感じます

 
 
S先生の語りは続きます。

 

子どもの作品を横並びで眺めて、よくできたとかできていないとか、そんなことはいくらでも言えるけども、一人一人の子の世界を感じるためにはそんな事は全く関係ない。


絵の上手い下手ではなく、きちんと、ちゃんと描けたかどうかでもない。

子ども自身が着々と
 
子どもの表現を丸ごと受け取り、
普段からどんな作品を見る時にもやるように
 
自らの気持ちがその作品をくぐり抜けた時に、どんな子どもの内面が見えて来るだろうか。

 

この対話を終えた夜、S先生から次のようなメールをもらいました。

 

今日はありがとうございました、作品みて話をしてると、私も癒されました。

頑張ってるんだよな、子どもは!と改めてしんみり。

頑張ってない子なんていないんだよな、ってしんみり

 

毎日子どもを優しいまなざしで見つめているS先生。

その先生が、子どもたちに対してまた一歩深い想いを抱いたことを、しんみりという言葉で語っていました。

S先生の中で「新たな理解」が生まれていました。

 

オープンダイアローグは精神医療の治療において、当事者を含めて関係者たちがチームになって対話を重ねます。

 

それに対して、この話は私とS先生との2人での対話です。

しかし、子どもの作品を真ん中に置いて語る事で、子どもたちの声が賑やかに聞こえてくるのです。

作品を媒介にする事でとても豊かなポリフォニーの世界へと広がっていくのでした。