katoreen101の日記

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主体的で対話的な深い学びの風景③ 〜学習規律と学力について考える〜

 こんにちは

北海道胆振東部地震から2週間以上が経ちました。

スーパーの品揃えもかなり元通りになり、日常が帰ってきたように思います。

今日ようやく納豆が買えた

ことで少し笑顔になった軽トラでした。

 

しかし、観光の人たちが激減してしまっていたり、停電の影響でいろいろな産業で大きな損失が出ていたり、経済への影響が表面化してくるのは、むしろこれからなのかもしれません。

 

 学校で見る子ども達の様子は、どの子も元のように明るいのですが、中には

「普通に見えるけど、実はとても頑張って過ごしている子」

も多くいるはず。

今後、大人達が抱く生活や経済への不安感が少なからず影を落としてくる気がします。

 

 

 さて、さて、

 エピソードをひとつ…

先週、地震後初めて子ども達が登校した日のことです。

  その日は午前授業となったので、いつもの少人数の授業を取りやめ、教室に学習支援に入ることにしました。

授業が始まり、子ども達と前時の学習の確かめをしていた時、突然担任教師が

「激怒」

し怒鳴り始めました。

 

何を怒っているのか私にはよくわからなかったのですが、どうやら、ある子が後ろを向いて他の子と話をしていたことを叱責したようです。

当然教室の中は緊張が走り、凍りついたようになりました。

 

なんだかよくわからない、

「学習規律ルール」

があるようです。

後ろを向いて他のこと話をするなど言語道断、皆の前で激しく叱責されるべき行為だったようです。

久々にそのクラスの授業に入り、その恐ろしげな「学習規律ルール」に私自身が違反してしまいそうです。

 

そして、そのせいで子どもがまた酷く叱られるのもいやなので、担任教師に

「すいませんがルールがよくわからない。私は何をすればいいのですか?」

とちょっとイラっとしながら(いやいや結構むっとしながら)尋ねました。

すると担任は

ちょっとイラッとしながら(いやいや結構むっとしながら)

「(勉強が)わからない子は手を挙げて自分からわからないと言う決まりになっているので、手を挙げた子の所にだけ行って教えてください。」

と答えました。

子ども達の前でのやりとりですから、

そのトゲトゲしさも十分子どもに伝わってしまいました。

こんな状況の中で、「わからない」というマイナスの事を、皆の前で手を挙げてカミングアウトできる子は果たしているなだろうかと思いましたが、何人かの子が

「先生、わからないので教えてください。」と声を掛けてくれました。

教師に子どもが気を遣ってくれているのです。

 

この緊張感の中、事が穏便に運ぶように子ども達は頑張っているのでした。

 

さて、このエピソードについて、皆さんはどう思うでしょうか。

 

もちろん、私の語りで綴っていますので、偏って描かれているかとは思います。

担任の教諭からしてみると、こんな話になるでしょう。

 

「学級をまとめていくには規律やルールを徹底させる事が大事です。小さな事でも許してはならない。教師が話している時に勝手に話をするのを許したら規律が乱れ、統制が利かなくなる。授業が成り立たなくなったら子ども達にとって学ぶ権利が奪われる。だから、ルールを破る子には毅然とした態度で接しなくてはなりません。私は子ども達のためにエネルギーを傾けて頑張っているのです。」

 

この教師の心の中には

「なめられてたまるか!」

という声がこだましているに違いありません。

「統制が取れた教室」

 

いついかなる時もそれしか考えないのでしょうか。

この教師は

その先に何を見ているのでしょうか。

前回に引き続きまた考えさせられてしまいました。 

 

www.katoreen.com

 

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  私がいた教室はそういう数多の教室の一つに過ぎないと思うし、こう考えるのは当然と多くの教師たちは信じているのだと思います。

 

たまたま、私が体験したエピソード。この担任教師個人に意見するというわけではなく、多くの同じ考え方の教師に向けて話しているつもりです。

それらに対して

 

次の点から異論を呈したいと思います。

 

1、大きな地震の後、はじめて登校した日。子どもの心に寄り添うべきではないか

  どの学校でも、子ども達は多少ハイテンションになるなど影響が出ていたという声が挙げられていました。S市においても各学校にスクールカウンセラーのスーパーバイザーから、教師が気をつけていなければならない点について文書で通知が来ていました。

その中には「大声で怒鳴ったりする事は慎むべき」という内容の記述もありました。

 

べつにスクールカウンセラーに言われなくても、担任だったらいつもと違うあのような状況なのですから、子どもの心に敏感でいるべきでしょう。

 

子どもを「受け止められる」気持との余裕。必要ですよね。

 

いつもと違う状況であるならば

自分の目の前の子どもにとって「今」なにが必要なのかということが日常のルールより大切ですよね。

 

2 学習規律が徹底され、統制されなければ子どもは学ばないのか

 

1で意見した事は多くの方々の同意を得られるような気がします。

でも、この点についてはおそらくほとんどの教師は

「あたりまえだ。学習規律は何より大事。学級担任がすべき仕事の基本だ。」

と胸を張って言うと思います。

 

「学習規律は大切だ」という点について、

もちろん、私もそう思います。

 

問題はその

「中身」と

「誰のための規律なのか。」

という点ではないかと思います。

 

学習規律を重点にしているある学校と

学習規律が先にありきということに否定的な考え方を持っている方の意見

を比較してみたいと思います。

 

 ⚪️学習規律の重要性を重点にしている学校

「学習規律」を重要視している道内のある小学校の研究発表の一部を紹介します。

子ども達は、学習するにあたって次のような約束をしなくてはなりません。

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 さらに、全校を挙げての「具体的な取り組みの重点」として

「姿勢」と「字の書き方」

を挙げ、すべての教室の黒板の上に「立腰」と書かれた紙を掲示して徹底を図っているとのこと。

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 また、保護者や児童のアンケートを基にした課題について、学校便り掲載記事からということで次のような文を発表しています。

課題1:姿勢

依然として、大きな課題となっている項目が「姿勢」です。(中略)引き続き重点的な指導が必要となります。これまでにも全学級に『立腰』という目標を提示し、指導の重点として発達の段階に応じた取組を進めてまいりましたが、今後も的確な指示や興味関心を高める授業改善などを進め、より一層定着するよう努めます。

 

課題2:字を丁寧に書く

 新たな課題として、「文字を丁寧に書く」があがりました。(中略)本校ではこれまでも「書く活動(ノート指導)の徹底」を重視しており、全学級に配置してある、実物投影機を有効に活用する授業を進めてまいりました。ノート指導は「後で振り返った時に学習の筋道がわかる」「書くことへの抵抗感の解消」など、とても大切な学習技能(スキル)として押さえ、系統的な指導に努めてきました。各学年の到達目標を明確化した取組を進めるなど、指導の徹底に努めます。

 

 この他に、全国学テや教研式学力テストの平均点が+2ポイントほど上がったことや体力の向上のための「チェックシート」、校長が全部の学級の公開授業を参観して学校の方針通りに行っているかを評価する実践報告を作成していることなどが発表されていました。

「学習規律」、中でも「立腰」という姿勢を保持することが学力向上に繋がる根拠については特に触れられてはいません。

他にも、問題の「解き直し、学び直し指導の徹底」や家庭での「学習習慣の確立」にも取り組んでいるとのことなので、やはり、姿勢と学力の相関はよくわかりません。

 

 ⚪️学習規律は何のため?という考え方

  映画「みんなの学校」の舞台となった大阪市立大空小学校の初代校長の木村泰子先生による雑誌に載っていた文章の一部を紹介します。

 

〜今、全国各地を回る中で、どの地域に行っても学校に行くことができない子どもの出会います。(中略)

これらの負の連鎖の空気が教室に充満する原因は、全てと言っていいくらい「学習規律」を守らせようとする教師の指導がきっかけになっています。

ここで少し立ち止まって自分の考えを持ってみませんか。

「学習規律」は何のためですか?

「学習規律」を守らせようとする前に、その「学習規律」は目の前にいる全ての子どもが守ることができる規律なのかどうかを考えてみましょう。守りたくても守れない子どもがいるのではないでしょうか。

ある学校では教室に椅子に座る姿勢の絵が貼られていて「足の裏はつけて背中はピンと伸ばし、机はお腹と握りこぶし一つ」と指導されていました。

この規律の目的は何でしょうか。いい姿勢を作ることですよね。でも例えば、教師であるあなたが45分間、このいい姿勢で椅子に座ることを強要されて、豊かな学びは生まれてきますか?

自分の考えをもったり、友達の考えを聞いたりすることが目的にはなりませんよね。こんな授業の中で、学びは楽しいと感じますか?学びの目的は「主体的で対話的な深い学び」です。

たとえ、床に寝っ転がっていてもみんなと学び合っている事実の方が大切なことはわかっているはずです。

 

 私の授業の中でも、考えることに夢中になってホワイトボードを抱えて黒板の下に座り込んで没頭したり、床に車座になって学び合う子どもの姿がしばしば見られます。

 規律がないと学ばない、ということはないと感じています。

 

というか、学ぶことに夢中になると教室の中の空気は一定の秩序に包まれます。

いつも、というわけではないのですが、そういうことは実際によくあります。

 

それを経験している教師はたくさんいるに違いありません。

 

上の2つのやり方考え方について、皆さんはどう考えるでしょうか。

 

私は

両者の決定的な違いは

 

子どもは一人一人みんな違い、一人一人みんなかけがえのない尊厳をもった存在。

できる限り、オーダーメイドできる学校がよりよい学校なのだ

という哲学があるかないか

 

ではないか感じます。

 

多様な人々が集まる学校。

規律は必要なのですが、その「中身」を

「誰の何のためのものか」

をもっと考えることで、教師自身も生きやすくなるのでかないでしょうか。

 

ご意見いただければと思います。

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