このところ
すっかり海外ドラマのトリコになっている。
もともと映画は好きだったが、ドラマはそれほどでもなかった。それが、アメリカのテレビドラマのおかげで、今や毎日楽しい。
映画だと、せいぜい2時間程度。その完結性もいいのだけれども、普通、ドラマはもっと尺が長い。
長いものだと1シーズン10エピソードが何シーズンも続いていく。
1日2〜3時間も平気で観てしまう。
そんなことを毎日していると、まるで自分がドラマの中を生きているというような気にもなってきてしまうのだ。
その中にあって、今日紹介する『チェルノブイリ』は全5話。
1話から5話まで、トータル330分。
一編の映画のような作品だが、一般的な映画の長さの2時間で描かれていたらきっと消化不良になったに違いない。
この話を描くにはこの時間はどうしても必要だったに違いないと思う。
そしてその330分、全てが緻密で重くてディープな世界、
楽しい、というのとは明らかに違う世界だ。
自分のブログで、ドラマの紹介というテーマははじめてだが、この作品についてはどうしてもどうしても一言書かずにはいられなかった。
『チェルノブイリ』はアメリカHBOで2019年制作されたテレビドラマ。
人類史上最悪の事故とも言われている、誰もが知っているチェルノブイリ原子力発電所事故という史実を基にしているドラマだ。
Wikipediaでは次のように紹介されている。
冷戦下の1986年に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故の際、事態を隠ぺいしようとするソビエト政府の対応や、事故がもたらした人々への影響、被害の拡大を少しでも抑えようと奔走した人々の苦闘を描く。
今年度のエミー賞の主要3部門を含む10部門を受賞し、アメリカではテレビドラマの最高傑作という呼び声が高い。
33年前の4月に起きたこの事故。
日本でも放射線の影響について急激に不安が広がり、小さい子をもつ友人たちが特に心配していたのを私もよく覚えている。
遠く離れた日本にも影響があったくらいだから、近隣諸国を巻き込んで大変に大きな影響を与えたに違いない、くらいの認識は勿論あった。
でも、あの日あの時に何があったのか、何故そんなことが起きたのか、そんな事は全然知らなかった。
知らなかったけど、特に知りたいとも思っていたわけでもなかった。
というか、もう「昔のこと、遠い国でのこと」つまりは他人事と感じていた。
そして今、全5話、時間にして(330時間)観終わった今。
これは昔のことではなく「今のこと、今も進行中のこと」で、遠い国のことではなく「正に自分の国のこと」かも知れなくて、
他人事では到底なく、自分たちが当たり前と思っている現実や日常はとても脆弱で、嘘や矛盾の上に成り立っているのかもしれない。
善良で真っ当に暮している(と思っている)自分や自分の周りの人達も、嘘や矛盾をつくりだしている当事者なのではあるまいか。
そんな中でも、恐怖や不安に立ち向う人間の底力や、やるべき事を淡々とやり抜く普通の無名の人々がいて嘘や矛盾を贖っているので今があるのだ。
などという事を深く考えさせられている。
いやいや、これはソビエト連邦という特別な政権下でのとんでもない話、しかもドラマなのだから、殆んどがつくり話なのだ。
とは、全然考えられない。
とにもかくにも
要するに、私が言いたいことは
このドラマは凄い!
本当に凄い!
みんな、この作品を観て欲しい、絶対観て!という事なのだ。
それ程までに勧める訳を3つほど考えてみた。
ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき理由①
○エンターテイメントとしての完成度の高さ
・とにかく、映像が凄い。
史実を描くためはリアリティーが重要だと思うが、どの場面を切り取っても隅々まで、その時代やその場の空気感がビンビン伝わってくる。
それを追求するためにウクライナに実存する原子力発電所の廃炉でロケを行ったとのこと。
原発城下町だったプリチャピの町の様子はCGを駆使して描かれたということだが全くCGだとは思えない。
爆発し破壊された原子炉のから夜空を切り裂くように発しているコバルト色の光の柱、
強烈な放射線を全身にどっぷりと浴びて全身がドロドロに朽ちていく消防士の姿。
原子炉建屋の崩れ落ちた屋根の上に散乱するはかりしれない放射線量を放つ黒鉛の残骸一つ一つの配置にもこだわりが見られる。
何十万人のも復旧作業員が野営する過酷な現場の、余りにも簡素なトイレの様子などは、ほんの2〜3秒しか描かれていないにも関わらず見事につくり込まれていて、短いカットだからこそ印象深い。
現場と対照的な労働党や原発の上層部が自らの保身や国の体面を一番に対応策を話し合う会議室。
椅子や机、ドアや床、使っている紙や筆記具に至るまで、本当にこういうところだったに違いないと唸らせられる。
・そして音楽も凄い
放射線は眼に見えない。その場がどれ程に危険な場所なのか分からない。
激しい放射線を放つ剥き出しの原子炉の様子を見に行く原発の技師たちや、高濃度に汚染された冷却水プール入っていく作業員。異様な光を放つ発電所を、見晴らしの良い場所から見物していたプリチャピの町の人々の上に降り注いだ死の灰。
それを掛け合って遊ぶ楽しそうな子供達。
映像では描けない眼に見えない危険を表現しているのが「音楽」だ。
低重音を中心にした、音楽というよりもはや効果音のようなサウンドが恐怖を果てしなく増大させる。
・役者もシナリオも当然凄い
全5話は事故を軸に、それぞれ違うテーマを中心に描かれていくために主役格は何名かいる。
一人ひとりの役柄は、実在した人物をとことん忠実に演じていると感じさせられる。派手なアクションなど何もない。
地味だが、さすが、アメリカやヨーロッパで活躍する演技派俳優陣。
全編を通してセリフが少ない。
特に第4話で中心に描かれていた、地方から動員された若い作業員には、最小限のセリフしかなかった。
その分、表情や動き、他の登場人物との短いやり取りやその絶妙な間での演技が圧巻だ。映像と役者の演技力を引き出すために余計な言葉は不要なのだ。
一転、第5話の裁判のシーン。レガノフ博士が真実を明らかにする明解な証言は、魂のこもった長セリフ。
この対比で物語は一気にクライマックスへ向かう。
計算されたシナリオは本当にお見事。
ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき理由②
○「遠い国のこと・昔の他人ごと」ではなく、「今・ここ・自分」の問題だということ
原子力発電所の事故については国際原子力事象評価尺度(INES)という指標がある。事故の影響度をレベル0からレベル7までも8段階で示している。
この指標の最も深刻なレベル7に該当する事故は人類史上2件しかない。
一つはチェルノブイリ、そしてもう一つは2011年3月11日に起きた東京電力福島第2原子力発電所の事故である。
たった7年前、世界のどこでもない、我が国での出来事。
あの日、大地震の後、私は一晩中テレビで現実とは思えない信じられない被災地の映像をみていた。
翌日の土曜になって原子力発電所から煙が立ち昇っている映像が流れて背筋が寒くなった。
テレビでは「水蒸気爆発で建屋が吹き飛んだ。」と繰り返していた。
水蒸気で吹き飛んだだけなら、原子炉には影響はないんだ、深刻なことではないんだ。そんなふうに思っていた(思おうとしていた)ように記憶している。
しかし現実には
すでに大気中・土壌・海洋・地下水へ、大量の放射性物質が放出されていたのだ。
複数の原子炉(1,2,3号機)が連鎖的に炉心溶融し、大量に放射性物質を放出するという、史上例を見ない大規模な原発事故になっていたのだ。
私も、私の周りの人たちも完全に「正常性バイアス」に陥っていた。
手元に2011年3月12日の新聞が残っている。
原発についての記事を見て欲しい。
当時の菅首相のメッセージには
「原子力施設につきましては、一部の原子力発電所が自動停止しましたが、これまでのところ外部への放射性物質などの影響は確認されていません。」
とある。
原発についての別の記事と見比べても、余りにも軽い扱いに驚きを隠せない。
実際には『チェルノブイリ』と同じレベル7の史上最大の事故が起きていたという事実を私たちが知るのはずいぶん後だった。
ドラマで描かれていたような、嘘で事実を未だに知らされていない、なんて事はある訳ない、そんなことがあるなんて信じたいくない。
けど、
ドラマの中で、様々な人が自分の上司に繰り返し言っていた言葉「心配ない。事故は完全にコントロールされている。」というのを聞くたびに
安倍晋三が、東京オリンピック誘致のスピーチで
「フクシマの事故は完全にコントロールされている。何も心配ない。」
と言っていたのを思い出す。
そしてまた、背筋が寒くなる。
嘘がまかり通り、何が起きたか本当のことを語ろうとする人々はKGBなど国家に逮捕されたり役職を剥奪されたり、追放されたりしていくシーンも印象的だった。
これと同じようなことが日本では起きない(起きていない)なんて、今の政治を見ていると、誰も思うはずがない。
嘘がまかり通るのが「今、ここ、自分」がいる現実の世界。
そう思うと、今度は怒りで背筋が伸びる。
ドラマ『チェルノブイリ』を観るべき理由③
○エネルギー問題の矛盾について考えさせられる
一旦事故が起きてしまうと甚大な被害が出て、計り知れない影響が出るという事は嫌というほど誰もが知っている。
ドイツのように原子力発電をやめてしまう国も出てきている。私だって一旦事故が起きたら取り返しがきかない危険な原発なんて、なくなって欲しいと思っている。
原発反対派の人たちは、原発の利権で潤っている人たちのせいだと批判する。
関西電力の金品受領問題なんて、まるで昔の悪代官と越後屋のようで真っ先に成敗しなくてはならない。
原発がなくなっても国内の電力は賄えると主張する。
でも、
その分を何で賄うのだろう。
火力発電だってダメだ、という人たちもいる。
CO2の排出に積極的でないことを指摘された我が国の環境大臣は各国から指摘されても、何も解決策を示せなかった。
2018年の北海道での地震によるブラックアウトを引き起こしたのは火力発電所が被災したため。
本当に不便だった。
あの1日半、ずっと不安だった。
これが長引いたら、不便どころかどれだけ被害が出るか誰にも想像できない。
北海道の冬を電力なしにどう乗り越えるのか、誰にも考えられない。
とにかく、電力がなければ今の生活はまるで成り立たないのだ。
何百年も昔の生活に戻らなければ生きていけない。
地球温暖化の防止のためCO2を排出する国を批判しているスウェーデンの少女でさえ、彼女の毎日の衣食住も、彼女が読んだ本も、受けた教育も、世界に配信しているツイートだって電気のおかげだ。
今書いているブログだって電気があるおかげ。
エネルギーと環境の問題は簡単ではなく、無知で不勉強な自分が語るべきではないかも知れない。
悪者を見つけて批判するのは簡単だけれども、自分だって知らず知らず悪事に加担している。
自分たちは安全な所にいて、
便利を供給している者たちを「やり方が間違ってる、どうしてくれるんだ。」と批判する。
誰だって、人を責める言葉を淀みなく叫べるんだ。
でも、
そんな、真っ当で善良に暮らしている(と思っている)自分たちだって当事者なのだと考えれば、
たとえ正解を見つけられなくても、この矛盾を少しはちゃんと考える責任があるのではないか、
と言うことも考えさせられた330分間だった。