今日は昔話です。
昭和の終わりから平成の初めくらいにいた、海辺の小さな学校の話です。
30年も前なのに、初めてその学校に行った日のことを今でも、やけに鮮明に覚えています。
3月末だというのにまだ深い雪の中。
石狩川の河口に向かって国道を抜け、行けども行けどもたどり着きません。
これ以上行ったらもうその先は海、というところを左に曲がれという案内に沿ってみたものの、目の前に広がったのはだだっ広い砂地。
周りには、枯れた海浜植物の茎が強い風に煽られて激しく穂先を揺らしています。
砂が右に左に舞い上がり、その光景を霞ませていていました。
荒涼としたモノトーンの世界。
間違えたかな、と思った途端、学校らしき円形の変わった建物が目に入ってきました。
それが、私がその後6年間勤務することになったI小学校の校舎でした。
よく見ると、だだっ広い砂地の端に鉄棒やらタイヤで作られた遊具などに塗られた赤や黄色の点が目に入ってきました。
ただの砂地だと思ったのは学校のグラウンドだったのです。
グラウンドの海側には海岸段丘である砂山が連なり、かろうじて海岸とグラウンドを仕切っていました。
缶詰のような円形の校舎に入ると、玄関ホールのど真ん中にいきなりアザラシの剥製。ガラスの目玉がこちらを睨んでいます。
オイルがたっぷりと染み込んだ木製の床板はかなり年記が入っている様に見えました。
この頃は、すでにどこの学校も鉄筋コンクリートの四角い校舎で、床もほとんどが樹脂製のタイルなどになっていましたので、とても古臭く感じ、レトロを通り越し、ちょっと不気味な感じさえしました。
古いのは校舎だけではありません。
玄関前には「二宮金次郎」の石像が立っていて、その台座には「昭和17年建立、開校70周年記念」と彫られているではありませんか。
…ということは、その当時でも、かれこれ開校120年近い計算になるではありませんか。
I小学校は、歴史も北海道では最も古い学校の一つ。
この地域は明治の初め、ニシン漁で繁栄していたそうです。
しかし、その頃の賑わいの片鱗はもはや全く見当たりません。
その時は、
はっきり言って
「えらいところに来てしまったものだ…」
「こんなに自然の厳しそうなところで勤まるのだろうか…」
という心から思いました。
本当に最悪の出会いでした。
そしてその6年後の3月。
「何事にも代えがたい、素晴らしい宝ものを授けてもらった。」
という思いを抱きこの地を離れ、大都市の学校へ異動しました。
ここでの思い出は、今でも教師として、ここまでなんとかやってきた
私の「学びの原風景」
です。
それは、
この厳しい自然の中で逞しく生きていた子どもたちとの出会いがあったからこそでした。
タイムスリップしたようなこの校舎には、130人ほどの子どもたちが通っていました。
1年から6年まで1クラスずつで、子どもたちは幼い頃からお互いをよく知っていました。
仲良くしていたかと思うと、よく喧嘩もしていました。
夏でも、風が吹くと砂嵐のようになるので、休み時間から帰ってくると皆んな鼻の穴が真っ黒、
お互い顔を見合わせて大笑い、なんてことは日常の風景でした。
教室の中はいつも砂だらけ。その砂を掃除をしても古い木の床板の隙間に入り込んでしまい、まったく掃除のしがいがありません。
短い夏の間もほとんど強い風が吹いていました。
しかし、珍しく風のない晴れの日は、厳しい自然が一点しました。
真っ青な空に心地よい潮風がたなびき、本当に爽快です。
そんな日は教室から飛び出して半日砂山で遊びました。
今のようにやらなければならないことに追われず、やりたいことをやりたいようにできました。
そんな、ある日のこと。
2年生の子どもたちと砂山でいつものように遊んでいると、
一人の子が
「先生、砂があったかいよ!ほら、触ってみて。」と大発見をした、とでもいう様に言いました。
「ほんとだね。どうしてだろう。」と聞くと、その子は空を見上げ
「お日様が当たっているからだ!」と嬉しそうに言いました。
他の子が
「じゃあ、当たっていないところはどうなんだろう。」
と言い出し、クラス中の子たちが暖かい砂とお日様の関係を巡って様々なところを調べ始め、もう大騒ぎです。
そういえば理科室に温度計があったことを思い出して持ってくると、子どもたちは今度は初めて見る温度計の読み方に興味津々!
読み方を教えると
「丁寧に扱ってね、割らないでね。」
と言う私の言葉を尻目に、子どもたちは使い方を覚えたばかりの温度計でグラウンドのあちらこちらの温度を測り、日照との関係を解き明かし始めました。
3年生の理科に「日なたと日かげ」という単元がありましたが、子どもたちは遊びの中いつのまにか学んでいってしまいました。
教師の私がしたことは
いい天気だったので皆んなで外に行こうと提案して、
「砂があったかい。」と気づいた子に「どうしてだろう。」と問い、
温度計を持ってきて目盛りの読み方を伝えただけでした。
教室に閉じこもり、教科書の内容を流し込むことが、勉強を教えること、それをしっかりやるのが教師の仕事だと普通に信じていた私。
ゆっくりした時間と、コロコロとよく遊ぶ子どもたちと、一見何もない、果てしなく殺風景ではあるけれど、実は宝の山のような豊かな自然。
その中で、ちょっとした働きかけがあれば、子どもたちが「自分で学ぶ」のだ、ということに次第に気づいていきました。
そして更に色々な経験を積む中で、
子どもは「未熟で何もできない」から「教師が授けてやるのだ」という考え方は間違っている
ということがわかってきました。
あれから30年近く経って、様々な学校の仕事をいろいろな立場でしてきましたが、その時の「気付き」は、一貫して自分の考え方の元になっていたと今感じています。
風と砂山の記憶は今でも自分の「学びの原風景」として忘れることができません。
海辺の小さな学校でのエピソードを少しずつこれから書いていきたいと思っています。