katoreen101の日記

学校教育と授業研究・アートと猫と…あとはあれこれ

「授業改革」を考えた10年前と今②

 下の文章は今から10年以上前に、私が学校の授業研究を進める中心の役割をしていた時にその進め方について書き、先生たちに提案したものである。

 

2007年5月の日付がある。

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はじめに

          教育改革をめぐる議論の展開はめまぐるしい。かつて受験教育や詰め込み教育が批判され、「ゆとり教育」が推進された。ところが、完全学校週5日制と学習内容3割削減をうちだした学習指導要領が実施されると「学力低下」の声が高まり、「確かな学力」の向上が掲げられるようになった。そして昨今は「基礎学力向上」のために反復学習やドリルを徹底し、授業時数を10%増加させようなどという提言も出だし、まさに議論が揺れ動いている観がある。そもそも「基礎学力」とは何なのだろうか。反復やドリルで基礎学力は定着するのであろうか。学習の主体者である子供にとって本当の「学び」とはいったいどのような営みなのだろうか。現場の私たちがなすべきことは何なのだろうか。

「学び」の原点に立ち返り、時代背景や様々な理論や実践などから私たち教師自身が「学び」にたいしてじっくりと子供の姿から学んでいかなければならない所にきているのではないだろうか。今期研究はそこからスタートしたいと考えた。

 

  • 今日的課題〜競争から共生へ〜

 高度成長期を支えた産業主義=モノと生産と消費が中心の時代は終焉を迎え、それに代わり高度の知恵や情報や対人サービスなどによって経済が構成されるポスト産業主義の時代がはじまっているといわれています。そんな中、これからの時代を生きる子供たちにとってどんな力を育むことが必要になってくるのでしょうか。

 先頃行われた全国学力テストの中にも単に知識や技能だけでは解答できない問題が出されました。(※別紙参照)それらのなかでは高度な読解力や実際に体験したこと、見たり読んだりしたこと等をもとに思考していくことが求められています。それらからも学校教育で育むべき「学び」について発想の転換が求められていることが見て取れるのではないでしょうか。

 「勉強」をして成績を上げ、いい学校に入学しいい会社に就職することが幸せに結びつく。そのためにテストの点数や「知識・技能」を貨幣のごとく蓄えることが大切であるという考え方はすでに過去のものとなりつつあるように思われます。

 

学び観の転換

 では、新たな時代において「学び」についてどのように考えていけばよいのでしょうか。

 

 子供一人一人にとって、『学ぶ』とはどのような体験なのでしょうか。

ひたすら言葉を覚え込んだり、計算などの特定のスキルを訓練したりする「苦行」を「学び」だと信じこんでいる子供が多いようです。もちろん、この種の苦行も学びの一部だとはいえるでしょうが、そのような考え(「学び観」)に立つかぎり、学ぶという活動のもつ本来の豊かさをイメージすることはできません。

鹿毛雅治著「子供の姿に学ぶ教師」より

  この文に「苦行」としてでてくることは『勉強』という言葉に置き換えることもできると考えられます。学習内容を「定着」させるために「反復・習熟」することや、ひたすら記憶したり覚えたりすることも「勉強」といえるでしょう。その場合はできたかできなかったかという「結果」がすべてととらえられがちです。 

 研究部ではこのような「勉強」について否定するわけではありません。しかし、それらは「学び」のごく一部にすぎず、私たちがこれから求めようとしている「学び」観とは別のものととらえて考えたいと思います。

 

では、「学び」とはいったいどのようなものなのでしょうか。

 

 ある本では、「知識」と「自分」との接点が見いだされ、切実な問題として「知識」の意味を実感していくときに「学び」があると書かれています。

 また、ある説では、学んだことが自分の中ではっきりとした「意味」を構成していく過程、つまり「わかっていく過程」が「学び」であると論じています。そして、学んだことが実際の生活の中に生かされる「使える」知恵となっていくことであるともいわれています。そういわれるとわからなかったことがわかるようになる」うれしさや、世界が広がっていく高揚感が上記の文章でいう「学ぶという活動の本来の豊かさ」につながっていくということが納得できてきます。

 そして、それに加えもう一つ。「学び」は個人の頭の中だけでおこる営みではないという考え方があります。学び合う人間関係の中で「1人前」としての自分を形成していく営みが「学び」であるというのです。いくら自分の中で「意味が構成」され、知恵が身についても、それを生かせる場がなければ「学びがい」がありません。人はなんらかの共同体に「参加する」ことによってその「学びがい」を得ることができるというのです。このことも「自分を形成する営み」の重要性を考えると「学び」の意味として納得させられるものがあります。

 研究部ではこれらの考え方をヒントに学校としての大きな方向性をもち、「学び」について実際の子供の姿で語れるような実践的研究をじっくり1年かけていろいろな方法で推進していきたいと考えています。

 

研究主題について

 研究主題を学校としての大きな方向性としてとらえていきたい。

学び合う子供を育む授業の創造

〜聴き合うかかわりを通して学びの共同体をつくる〜

 

  『学び』とは活動的で協同的で反省し表現されることで営まれるものです。また、人はなんらかの共同体に「参加する」ことによって「学びがい」を得ると考えます。したがって「学び」は「学び合う人間関係」=『学び合い』に大きく由来するものです。「学び合い」についてはいままでの本校の研究の中でも常に大切な要素として盛り込まれ、課題として積み残してきたものでもあります。「学び合う」関係を築くには「学び」と表裏一体のものである「学ぶ意欲」・「学びがい」が形成される場である共同体を学級の中につくっていくことが必要であると考えました。そしてこの「学びの共同体」をつくるために最も重要な要素が「聴き合うかかわり」であると考え以上のような研究主題・副主題を設定しました。

 

「聴き合うかかわり」とは対話的コミュニケーションの基礎となるものであると考えます。

 「学び合う」ためには単なる会話ではなく、自分とは差異のある他者に誠実に向き合い、相手が思っていること、感じたり、思ったりしていることを共感的に理解しようという対話的コミュニケーションが必要になってきます。そのためにはじっくりと相手の話に耳を傾ける「聴く」ということがむしろ「話す」という行為より大切であると考えます。集団の中に「聴いてくれる」仲間がいるという信頼感や安心感が醸成されたとき、私たちはその中で心を開き、コミュニケーションに対して前向きになることができるのではないでしょうか。

 「学び合う」かかわりを築くには一人一人が共同して学んでいるという意識がはたらく共同体を形成していく必要があります。「学び」を教える側(教師)が教わる側(子供)にたいして知識や技能を一方的に伝達することととらえるのではなく、子供たちが「学びがい」のある共同体に参加することにより一人一人の「学び」が推進されると考えます。

 研究の方法

 今までの研究のスタイルから、より日常実践に生かしていくスタイルに(実践的で反省的な研究へ)

○事前も大切ではあるが、それ以上に実際に起きた教室での出来事から学ぶ、反省に重きを置いた研究を推進していきたいと考えます。事後の話し合いでは、授業の展開や発問や指示など「授業の拙巧」を問うよりも子供の学びと教師のかかわりを中心に検討していきたい。

○指導案ではなく授業づくりに時間をかけたいとの考えから指導案づくりを簡略化します。授業の良し悪しを議論するのではなく、授業のむずかしさを共有していきたい。

○学校としての大きな方向性のもとで、それぞれの先生の持ち味やクラスの特性に応じた個別のテーマをもち推進します。個々の学級の課題をもちより、それを自分たちの課題として共同して進める研究とします。授業公開においても授業者の意図や自発性が尊重されるべきであると考えます。○子供のいまをしっかりと見ていく学年学級経営交流と研究を一体化させていく研究としていきたい。(今日の授業の中で、○○くんが〜というように固有名詞で語られるような、より実際の授業場面に即した話し合いを推進していきたいと考えます。

 教師自身が「学び合う」豊かな同僚性を

 研究を推進していくうえで最も大切なのは教職員自身がお互いを「専門家」として認め合い、高め合っていくことだと考えます。学び合う人間関係の中で「専門家」としての自分を形成していく営みが私たちの「学び」ではないでしょうか。学校として大きな方向性に向かって、一人一人の教職員が自分の持ち味と専門性を発揮し授業実践を進めていくことやお互いを支え合うことが保障される豊かな同僚性のもとで研究を進めていきたいと思います。

 「学校研究」ですから、学校全体としての「研究成果」がなくてはなりません。しかしそれは、目に見えるものではなく、ましてや一つの象徴的な物事や研究会の紀要や「成果と課題」の文章に書かれている抽象的な事柄ではないと考えます。学校全体の「研究成果」といえるのは、すべての教職員が「専門家」として成長することができたという事実の中にあるのではないでしょうか。

 そのためには前項でも述べたように学校としての大きな方向性のもと、各自が自発的に課題をもち、協同し、実践し、反省することが不可欠な要素になると考え推進していきたいと思います。

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  兎にも角にも、ストイックに「授業改善」に燃えていた当時の自分を思い出すに懐かしいやら、恥ずかしいやら。

 でも、今読んでもそんなに間違った事は言っていないように思うのだ。

 ポスト産業時代は終わったどころか、人間の仕事の大部分がAIに取って代わると言われる時代になっているというのに、10年前に訴えた事は、未だにやっぱり何にも解決されてないし、正直言って、そんな兆しさえ、今の私の住んでいる北海道には起きていない。

 

 今日、S市の小中学校では午後を臨時休業にして市を挙げて授業研究会が行われた。

算数の部会に出席したけれども、授業のスタイルはほんのちょっと活動を取り入れた「一斉授業」。しかも、導入では教師が10分以上も話し続ける。

 

10年前と何も変わっていない。

10年前と何も変わっていない!

10年前と何も変わっていない!!!

 

「一斉授業」で学べる子供はクラスの半分くらいなのだ。

どうやってもそうなるのだ。

ということは多くの研究者がいろいろな方法で明らかにしてきている。

どうやってもそうなるのに、いくら教材化だの、教師の関わりだの、学習展開の工夫だの言っても、学べる子供は半分よりは増えないのだ。

 

教材化や展開の工夫は大事でないとは言わないから、やらないよりはマシだけれども、

子供の力を信じていないから、「授けなければ、わからない。」と信じているから「一斉授業」しか教師は依然として行えない。

 

「信じて」「委ねて」「支える」、勇気がない。

 

そういう私自身も、「一斉授業しか見たことない。」「一斉授業しかこの世にない。」と思っている、80人もの教師たちの話し合いの中でちゃぶ台返しするを勇気がなかった。

 

今の私は3月までとは違い、退職したただの非常勤教師。

肩書きのない変な人が、変なことを言ってると一蹴されてしまうだろうことにエネルギーを費やす力が出なかった。

 

だから、この場で自分の意見表明をすることにした。

もう校長になることはできない。

大学で教員養成をやりたいという希望も叶えられないでいる。

でも

教育評論ブロガー

と自分で名乗ることはできる。

 

もう10年以上も「授業改革」を考え続けてきたことを、

これからも、いろいろな角度から考え、実践し、共有したいと思い、このシリーズを書き続けていきたい。

 

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