海べの町の小さな小学校にいた時のことを綴っています。
今日もその時の忘れられないエピソードの中の一つを紹介します。
いつもの教室の風景
中休みやお昼休みを終えて教室に子どもたちが戻ってきます。
「さあ、遊びの時間は終わりですよ。気持ちを切り替えて!勉強はじめます。」
と言われてもそれは大人の都合。
ある子はもう少しでできそうだった縄跳びの技のことで頭がいっぱいだし、別のある子は、仲良しの子とナイショで砂山に埋めた木の実のことが気になって仕方ありません。
子どもの時間はつながっていて、一人一人は自分のストーリーの中を生き続けています。
授業時間も同じ。
図工の時間に考えた自分のキャラクターを算数や国語のノートにも書き込む子、スキー場に行った次の日、スキー場での楽しかったことを鼻歌を歌いながら理科のテストの裏いっぱいに描いている子。
小学校の担任教師は、ほぼ一日中クラスの子供達と一緒にいるので、そのストーリーを共有できるのです。
理科しか教えていない教師がみたら、テストの裏のいたずら描きに眉をひそめるでしょう。しかし、一緒にスキー場に行った担任ならその絵を見て微笑まずにはいられないでしょう。
学級担任制はいいことばかりではないのですが、中学校からきた私にはとても新鮮でした。
何曜日の何時間目という切り取られた授業時間をこなす作業をしていて、生徒の態度がいいとか悪いとか、一人一人にその子なりの、その日のその時間の心の持ちようがあるという当たり前のことを全く考えずにいました。
当然のことといえば当然なのですが、小学校に来て、朝から子供を見ていて初めて気が付いたのです。
そして思いました。
このストーリーに沿って学んでいったら、子どもたちは学校が楽しくなるのに違いないと。
しかし、国語や算数、その他の教科はそれぞれほとんど何の関連性もなく、つながっている子どもの時間に関係なくタテ割りで進んでいきます。
進度というノルマに追いかけられて、どんどん進めていかなくてはなりません。
やらなくてはならないことはやらない訳にはいきません。
自分だけ勝手なことをするわけにもいかないじゃないの、と言いながら
ちょっとだけ、(実は結構)勝手なことをしていました。
勝手というと少し乱暴な感じがしてしまいます。
言い換えると、時間割やカリキュラムをその時の子どもの状態に応じて弾力的に行なっていた、と言う方がいいかもしれません。
自然の豊かな学校だったので、教室に閉じこもっているより、外に出てワイワイと色々なことに気付いては絵に描いたり、文に書いたり、そんな活動を伴う時間がどうしても多くなってしまいました。
そんなある日のこと。
その日は朝から激しい雨風。
さすがに外に出ることはできずに教室で漢字の書き取りなどをやっていました。
轟々と言う大きな音を立てて雨粒が教室の窓を叩きつけます。
ふと見ると、漢字の練習を終えたNちゃんが目を見開いてじっと外を観ています。
何をそんなに真剣に観ているのだろうと思い、彼女の視線の先を追いました。
激しい雨風が、学校の前の舗装されたグレーの地面を打ち付けています。
雨粒はしぶきを上げて弾け飛び、銀色に光っています。
しぶきは霧になり、窓の向こうの風景を霞ませています。
うわー、思ったよりひどい天気になったものだ、子どもたちの下校も厳しいなあ〜、Nちゃんも強い雨風に驚いて観ているのだなと思った時
Nちゃんがこうつぶやいたのです。
「先生、風って観えるんだね…‼︎」
風が観える??
どういうことなのだろう、と思い彼女が観ている風景を改めて見てみると…
大きく揺れる草木や跳ね飛ぶ雨水、窓ガラスの表面を斜めに流れる雫。
大人の私にとっては単なる激しい雨だなあ、としか見えなかった風景をNちゃんの柔らかな感性を通した目には
「風が観えた」のでした。
色も形もない風。
その風が周りの風景を変えるというやり方で姿を現わすのだ
というとてつもない大発見に
Nちゃんは目を見開いていたのだ
ということを知った私は深く感動し
「子どもたちには到底かなわない。」
と心の底から思わずにいられませんでした。
そして、漢字の書き取りはまた今度、
「みんな、窓から外を見てみよう。いつもと違う景色が見えるよ。」
と早速、今しかできない体験を皆ですることにしました。
地域素材を探し回り、子どもがワクワクするような題材を仕組む、ということを覚え
主に図工や生活科などの題材開発を進めていた当時の私でしたが、
こんな感動させられるエピソードに度々出くわし、
結局はこっちがワクワクさせられる
のでした。
子どもには大人のもたない(もてない)文化があり、それは大人になる前の未熟で未発達なものという訳でなく、そのままで私たち教師が学ぶべきものなのだ
という思いは、今も心の底で変わっていない気がします。