札幌市市民交流プラザ札幌市図書・情報館に遅ればせながら、
初めて来ました。
ここの図書は貸し出しはできないのですが、カフェの様な素敵な雰囲気の館内でじっくりと読むことができるのです。
www.sapporo-community-plaza.jp
最近始めた心理の資格試験の勉強と思って訪れたのですが、手に取ったのはやっぱり教育関係。
前からずっと気になっていた前文科事務次官、前川喜平氏の
「教育の中のマイノリティーを語る」
をピックアップ。
まずは、
前書きで、すでに感激!
そこからいくつかの文を引用します。
◯憲法には「能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」(第26条)と書かれています。
能力というと、つい、あるないと捉えられがちですが、ここはさまざまな能力に応じてと解釈すべきだと思います。能力とは今回の5つの対談の中で話してきた様に(前川氏はこの本の中で5人と対談している。そこでそれぞれ「高校中退」「夜間中学」「外国につながる子ども」「LGBT」「沖縄の歴史教育」をテーマにしている。)
単一の尺度で測れるものではなく、一人ひとりがそれぞれ多種多様な能力を持っています。むしろ能力という言葉よりも個性という方がいいのかもしれません。
それぞれの個性に応じてひとしく、
このひとしくということばは「もれなく」という意味で、誰もが同じ内容・形式の教育を受けるという意味ではありません。
誰もがそれぞれの個性に応じて教育を受ける権利を持っているはずですが、現実にはそれが実現されていません。
とくにそれが実現していないケースが多いのはマイノリティの人たちに対してと言えるでしょう。
均質な人材を大量に育成しようという近代的な政治・経済の要請に従った教育政策のなかで置き去りにされた人たちがたくさんいました。
◯日本の教育政策が目指すものは、戦前であればいい兵隊、戦後は経済成長に役立つ人間づくりでしょう。経済成長に役立つ人間をいかに育てるか、生産要素としての人間という見方です。いかに生産性の高い労働力にするか、そういう教育が続いてきました。
そういうなかで制度からはじき出された人たちがたくさん出てきました。教育の中のマイノリティはそうした画一的な人材養成の仕組みから落ちこぼれたともいえます。
いまの文科省は相当な部分で内閣官房に牛耳られています。とくに大学政策が顕著です。
とにかく経済成長に役に立つ人間をつくれという。たとえば、マイノリティの研究のような非生産的な研究に金は使うな、いわんや反日的、自虐的な歴史研究などは絶対にやめさせろという。
◯私が学生の時に勉強した憲法のテキストは宮澤俊義さんが書いたものでした。宮澤さんは、思想の自由市場のような言い方をしていました。色々な思想が自由に表現される。そのなかでまっとうな思想が生き残ると考えていました。ところが、まっとうな思想が、レッセフェールで放っておいて生き残れるのか。
いまの状況を見ていると、まっとうではないほうがはびこっているのではないか。
◯これからの教育を考えるときに、
学習権というものを根本において考えるべきでしょう。
私は仮に憲法を改正するということでれば、学習権をきちんと書き込むべきだと思いますが、もちろん、いまの憲法のなかでも13条の包括的人権規定や23条の学問の自由を合わせて読めば導き出せるものです。その根っこには個人の尊厳というものがあって、
一人ひとりが学ぶことによって自分の尊厳を保ち、それを発揮し、実現することができる。学ぶ権利は根っこの権利として確立すべきものです。
◯これからの教育、教育行政は、これまでのように国のための経済成長を貢献することをよしとするようなモデルから、
学習権を基礎に一人ひとりの尊厳が生かされ、学ぶことによって個人が人格を完成させていくようなモデルに組みかえていくべきです。
前川氏は
「憲法の理想を実現することが行政の仕事だと思っていました。しかしマイノリティの子どもたちの教育の機会を保障することが文科省の仕事の中でもできなかったという気持ちをずっともちつつ、十分できなかったまま退官してしまいました。」(実際には政治の圧力で辞めさせられたというのが本当だと思いますが。)
とも書いています。
教育行政のトップにいた方がこんなにもまっとうな考えをもっていたこと、
そしてそのために、不当な政治の圧力にあがない、職を解かれたという事実。
怖いですよね。
私が所属する、「北海道学びのネットワーク」では教室の中にいながらも学習権を保障されていない子どもたちの学びをどうつくっていくかを研究しています。
教室の中での一斉指導がつくりだす「マイノリティ」の問題に立ち向かおうという
気持ちを、前川氏の言葉が勇気づけてくれたように思いました。