katoreen101の日記

学校教育と授業研究・アートと猫と…あとはあれこれ

「授業改革」を考えた10年前と今

「授業を変える」3つの意識改革

1、子供観の改革   ãããªã¼åç 彫å»åãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 教師が集まり、子供の話を話題にするとき、きまっての話の中心になるのは『最近の子供たち』がいかに未熟できないことが多く、それらを向上させるべく指導することが困難かということではないだろうか。

 図工美術が専門の私は、かつてその筋の集まりの会合しばしば顔に出していたが、その度に「今の子供は彫刻刀の持ち方も知らない。」「小刀など危なくて持たせられない。」「にわとりを描かせたら足を4本描いたりする!」などと、しまいには話が白熱して酷い実態を数多く言ったもの勝ち的な雰囲気にさえなってしまうほどであった。

 

 彫刻刀や小刀が使えないのは子供の「せい」なのだろうか。何故そんなことをいう前に子供たちが手と心と目を使ってもの作りに没頭するような魅力のある題材を創ろうとしないのだろうか。憤りを覚えた私はその後、図工の題材をほとんどすべて自分で創り、子供たちにかけられたぬれぎぬをはらすべく(悪口を言う奴らを黙らせるべく)実践発表を続けたことがある。

 

 子供は本当に『未熟』なのだろうか。そうではなく、私たち教師の経験知と彼らの経験知との間に「差異」があるというだけのことではないだろうか。さらにいえば、彼らは私たち大人よりもはるかに生き生きとした世界の中に住んでいて、いつも新鮮な目と柔らかな感性としなやかな身体で、身の回りのヒト、モノ、コトからたくさんのことを享受しながら躍動して生きている。子供たちがもつこのすばらしい力は、私たち大人はだれひとり太刀打ちできるものではないだろう。

 

 

 (教師は)被教育者(子供)の「ここ」から出発することが必要なのであって、教師の「ここ」からであってはならないのだ。すくなくとも教育者は被教育者の「いま」と「ここ」を考慮し、それを尊重しなければならない。だれも彼方から出発して彼方に至ることはできない。「ここ」から出発して彼方に至るのだ。もっともだからといって、生徒たちが学校にもちこんでくる「規有の経験知」を教師が低くみたり、否認したり、知らぬままでよいということにはならない。

 〜パウロ・フレイレ「希望の教育学」より〜

 

 フレイレの言葉にあるように、子供の「いま」と「ここ」を決して低く見ることなく(その尊厳を)「尊重」すること。そして私たち教師自身が、子供たちがもつ文化のファンになること。  

 そういう誠実さや尊敬の念を私たちが子供たち一人一人に対していだく「子供観の改革」が必要なのではないだろうか。

 

 2、授業観の改革    ãããªã¼åç æ業ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 授業は誰のものだろうか。授業の主体は誰か。まぎれもなくその答えは「子供」であ

る。授業は子供たちのために用意され、子供たちにより展開し、子供たちがそこでテキストや仲間や自分と出会い、対話し既知から未知へと、一人一人がその中で学び、新しい価値を獲得していくために準備されるべきである。

 

 ★誰のための「いい授業」なのか

 「いい授業」とはどのようなものであろうか。授業には指導目標があり、そのねらいにそってその通りに展開されなくてはならないという意識が教師の中にある。その中では子供の「いい発言」が必要であり、その発言をつなぐ、さらに「いい発言」が積み重なっていかなくてはならない。そしてあらかじめ指導案に用意された「まとめ」に集約されていくスタイルでなければならない。子供たちは終始生き生きしていなければならず、はきはきと大きな声で発表しなくてはならない。これがねらいを達成できた「いい授業」の大方のイメージではないだろうか。自分自身も少し前までこのような授業を目指していた。

 しかし、よく考えると、これは「教師にとってのいい授業」、もっといえば「都合のいい授業」ではないだろうか。このような授業をよく観察してみると、どんなに活発に発表しているように見えるクラスでも発表している子はせいぜい10名前後1/3以下である。あとの2/3の子供たちは何を考え、何を思い、何をどのように獲得したのか。華やかに活躍した子供の陰に脇役でしかなかった子供が必ず多数いる。

 さらに、『いい授業』は常に「〜せねばならない」展開が推し進められる。展開の中で予想されなかった子供の反応がでてきても、それが価値あるものであっても、指導案通り「つなぐ」ために「切らなくては」ならないという皮肉なことがおきてしまう。

 指導案があることが問題なのではない。何もなしに子供に丸投げしてしまうのは無責任極まりない。問題は、それがいつも一つであり、その通りでなければならないという教師主導の意識である。一人一人の「学び」を尊重し、その事実にそって展開されれば、教師の予想を上回る「背伸びとジャンプ」する子供の姿にきっと出会うはずである。指導案は完成図ではなく、子供の学びのライブの中で何枚も描かれるアクティブな素描であるべきではないか。

 本当に一人一人の学びを保証するためには教師の側から見た『いい授業』をつくることでない。

 

  ★一斉授業の呪縛〜授業の効率か、学びの効率か〜

 現在、日常的に行われる授業の形態はほぼ一斉授業である。活動を主とする教科などにおいても始めと〆はきっちり一斉に指導するのが流儀だし、小集団交流もグループ学習も一斉授業のなかでの箸休め、または全体の中で話せる子を育てるための一過程として扱われることがほとんどである。私たちは一斉授業の効率性を信じて疑うことはなかった。一斉授業に対して「協同的な学び(グループ活動)」の有効性が近年クローズアップされている。東京大学大学院教授の佐藤学氏はその著書の中で次のように述べている。

 

 協同的な学びは、なぜ必要なのだろうか。この問いに対する私の答えは二つある。一つは、協同的は学びを組織することなしに一人ひとりの学びを成立させることが不可能だからであり、もう一つは、一人ひとりの学びをより高いレベルに導くためには協同的学びが不可欠だからである。すでに知っていることやわかっていることに習熟しても、それを「学び」と呼ぶことはできない。学びは既知の世界から出発して未知の世界を探検する度であり、既有の経験や能力を超えて新たな経験と能力を形成する挑戦である。ひるがえって、一般に行われている一斉授業において、一人ひとりの学びは成立しているだろうか。結論的にいえば、授業として成立しても、その授業の中で学びを成立させている子供は半数である。

〜佐藤 学著 学校の挑戦「学びの共同体を創る」より引用〜 

 

 私たちは一斉授業の中で授業の終盤によく「皆さん今日の学習わかりましたか?」などと問いかけることがある。「は〜い」と皆が口を揃えて返事をしたとしても本当に全員にわかったとは到底思えず「本当かな〜?!しっかり家庭学習で復習してくださいね。」と責任逃れ(わからないのは子供のせいだ)のようなことをいって取りあえず授業を終える経験をしたことがあるのは私だけだろうか。一斉授業(普段の授業)の中で「学びを成立させている子供は半数である」というは図星だ!と思うのも私だけだろうか。それにも関わらず協同的な学びへのシフトが行われないのはなぜだろうか。佐藤氏は次のように説明している。

 

 なぜ、協同的な学びを導入しない教師が多く存在するのだろうか。その最大の理由は、おそらく、ほとんどの教師の意識が「授業の展開」に収剱していて一人ひとりの「学び」に向けられていないことにある。「授業」は一人ひとりの「学び」の実現を目的としているはずなのだが、教師たちの関心は「授業」それ自体にとどまっていて、肝心の「学び」には向いていないのである。本末転倒であり、まずは発想の転換が必要である。

〜佐藤 学著 学校の挑戦「学びの共同体を創る」より引用〜

 

 発想の転換が必要なのである。「競争から共生の時代へ」の大きな変革の時代と言われる現在、今まで通りから脱却する体力が必要なのだ。

 授業は子供のものである。学びの主体は子供であり、教師は教室の学びのデザイナーとして、ファシリエーター(促進者)として授業がどう「展開」いたかではなく、子供がどう「学び」を獲得したかを見つめていく役割を負う必要があるのではないだろうか。

 

 3、学校における授業研究への意識の改革〜同僚性の構築〜  ãããªã¼åç æ業ãã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

 仕方なくやる研究や、やらされる研究は私たち教師にとって最大の雑務である。それでなくても毎日忙しい。明日までにやらなくてはならない仕事に毎日夜遅くまでパソコンを叩いている身にとって、「今やらなくてもなんとかなる」研究の仕事はいつも決まって「仕事の至急度」の最下位であり、指導案の締め切り前に慌てて仕方なくこなされる「嫌われモノ」である。研究部は学校の分掌の中で最も人気がないし、実際、研究部会はいつも愚痴のこぼし合いから始まるのである。(こんなことは書かなくてもいいのだが)だが、研究し続けることは教育基本法9条や教育公務員特例法21条にも「せねばならぬ」と記されているし、それ以上に教師が教師であり続けるため意味というか、拠り所のようなものだと思えるのである。

 「嫌われモノ」なる所以は「やらされている」という意識が大きいからである。そして「優れた授業」「いい授業を」つくらなくてはならないというプレッシャーがあるからである。 

 もし研究が自由で(自分のやりたいことができて)それについて、よきにつけ、悪しきにつけ前向きで適正な評価を厳しく加え合える仲間と支え合っていればどうだろう。

「あそこは〜〜すべきではなかったか?」というような授業観をそれぞれ発言したり助言したりすることではなく、個々の子供の学びがどこで成立し、どこでつまずいたかという事実が子供の名前で語られ、教師自身も学び合うかかわりが築けたとしたらどうであろうか。(2007年 秋)

 

以上の文章はおよそ10年ちょっと前、学校現場で研究主任として苦闘していた頃に書いたものである。

 

10年以上たった今、読み返してみて思う事は、肩肘ばって偉そうな書きっぷりでちょっとばかり恥ずかしいというなという事。

それと、当時課題と捉えていた事態が現在もほとんど改善されはいないという、「これって結構、深刻じゃないの」という事である。

 

 若手の教師たちの中では「子供観」が変わってきているようだが、ベテラン教師の中には依然として旧態然としたものが根強いように思う。

 そして何よりも、「一斉授業における『いい授業』の追求」はむしろ若手教師たちの中でしっかり根を張ってしまっているように見受けるのだ。(何ということでしょう!)

今教師をやっている若手の教師たちが自分たちが受けてきた授業を再生産している。

そしてその中で彼らは「優等生」だったことが再生産に拍車をかけているのだろうか。むしろ以前より磨きがかかってしまっているような場面さら見かける。

 

5年目の優秀な女教師の授業を見せてもらった。

息もつけない隙のない展開、呼応する規律正しい子どもたち。完璧な構造的な板書。とにかく、お見事!

そして授業観察していた私に問うのである。

「どうでしたか?私の授業!」

 

「おまえのための授業じゃねーよ、誰のためだよ!」と叫ぶのは心の中だけにして、

「えー、はい、いいんじゃないですか…。でも私は子ども達を観ていました。⚪️⚪️君は〜で、◽️◽️さんは…。」

と当たり障りなく(彼女のプライドをなんとか傷つけないように。最近の若手教師は傷つくことに敏感な子が多いのです…)、大切な事を伝えようとしても、彼女は期待する評価をもらえなかったとでもいうかのごとく顔を曇らせつつも、

「ありがとうございます。私、子どもたちが頑張っていた事を褒められてとても嬉しいです!」

と笑顔で的外れなことを言いだすのだ。

 

まあ、確かに子どもは頑張ってはいたのだ。でもそれは先生のために頑張っていたのだという事をどうやって彼女に理解させていったらいいのだろうか。

 

 研究主任の後、管理職となり、学校経営や他校での授業協力など、自分のできる範囲では「誰のための授業づくりだ!」と叫び続けたつもりだが、それは至極狭い世界の中での事で、

世界に向かって叫べたわけでもなく、結局は止まった時間の中に佇んでいたのである。

 

だから、いま、再びブログというツールで、しぶとく「ぶつぶつ言い続ける」ことを始めようと考えている。

 

(佐藤学先生は現在、学習院大学教授)

 

 

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