「切った紙の形から」という題材に取り組んでいた1年生。
鼻歌を歌いながら自由に紙を切っていきます。無作為に切り取られた形。ある子がその紙の形を見立ててつぶやきます。「なんか、シマウマみたい!」
周りの子たちが覗き込んで言います。「本当だ!ウマみたい」「でもなんでシマウマなの?」「シマないじゃん!」
「耳の形だよ、ここ。」
「ふ~ん、すごいね、じゃあシマシマを描いたら?」「僕も描きたい!先生描いていい?」
子どもは見立てるのが大好きです。偶然できた形を動物や人、身近な物などに例えていくことに何の苦もないようです。見立てに従って色を塗っていきます。何枚か塗った後、色画用紙に貼って周りに描きたいものを描いていきました。並んでいるクレヨンの色を眺めながらじっくり考えている子。紙の切れ端とおしゃべりしている子。隣を覗き込んでにこにこしている子。学級のすべての子どもたちが活動に浸っていました。
たくさんの虹色の動物たちと遊んでいる自分。きれいな色のキャンディーの雨をほおばっている子どもたち、ピカピカの防具をつけた凛々しい勇者たち。
子どもたちの様々なイメージの世界にふれ、担任の先生は子どもたちと対話し、共感し、時には驚かされ、しみじみと幸せなひと時を過ごしました。教師の立ち位置は指導者と指導を受けるものではなく、子どもたちのイメージをそのまま享受し、感動し、価値付ける者としてありました。優や劣という概念の入る隙間などはまるでありません。あるのは豊かで深くて、多様で生き生きしたイメージの世界で躍動する子どもたちの姿でした。
同じ日、別の場所で5年生が算数の学習に取り組んでいました。分母の違う分数の足し算という課題です。先生は課題をみんなに読ませた後、自分の力で考える時間を設けました。
S君は面積図を描いて、分母を同じにする方法を見出し、自分の考えでいいのか、先生が答えてくれるのを待っているようでした。
K君は足し算の式は書いてみたものの、分母も分子もそのまま足して自信がないような様子でした。
M君はノートに通分すればいい。と書き、式を書いて答え合わせを待っていました。
この3人は並んでいましたが、話すことはおろか、互いの様子を気にする素振りもありませんでした。
自分で考える時間のあと、先生の求めに応じて何人かの子が黒板の前で自分の考えを発表します。
K君は自分と似た考えの子と答えが一緒だったことでほっとしたようです。面積図の書き方に違うやり方があることがわかり、その後もいくつかノートに面積図を描いていました。
S君は自分の誤答に気付いたものの、面積図の1価量の意味がわからなく、じっと黙ったままでした。M君はおそらく通分すればできると予習していたのでしょう。面積図には関心がないようでした。
全体交流の場では、なぜか掛け算を主張した子が説明をしていて、それについて何人かの子が応酬していました。3人には3通りの理由でそのやり取りには全く関心がない中、授業は終わってしまいました。
おそらくこの後、テストがありS君とM君はそこそこ良い点数を取り、K君はあまり点数が取れないでしょう。そして「算数は難しくてきらい。」という印象をもってしまうに違いありません。
上の2つの教室では流れている空気がまるで違います。
一体なのが違うのでしょうか。
学年が違うから、教科が違うからでしょうか。それも全くないとは言えないと思います。どちら教師も努力していることも間違いないと思います。
きっと、この問いにはこんな答えが多くの教師から帰ってくるに違いありません。
「高学年になると学習の内容も難しくなる。特に算数だと能力差も開いてしまう。なるべく多くの子どもたちに『できた、わかった』という喜びを与えたいけれども、現実は難しいのですよ。」
こんな答えで次から次とこなさなくてはならない学習内容に、「わからない」という聞こえない声はあっという間にかき消されてしまいます。
一体何が違うのか。
この問いが大きく圧し掛かり続けています。
いくつかの授業を観察する中で、この問いへのヒントを見つけることがあります。
夏休みを前にした2年生の算数の授業でのことです。
2年生からこの学級を受けもったT先生は4月当初、雑然とした落ち着きのない子どもたちの様子に戸惑いながらも一つのことだけ徹底して指導し続けました。
それは「聞く」ということです。教室の中を歩き回る子がいても、黒板の前に座り込む子がいても「どこにいてもいいから、お友だちの言っていることを聞きなさい。」と、「聞く」ということを最優先にして子どもに促していました。先生自身もたどたどしい子どもの声を、時折少しだけリボイスしながら「聴き続ける」姿勢を見せ続けました。すると、しだいに立ち歩きもなくなり、6月中頃からは静かにお友だちの話をどんなにしどろもどろでも、沈黙の時間が長くても「聞き続けられる」ことができるようになってきました。
ある時、進んで前に出てきて「聞いてください」と友だちの方を向いて話す子が出てきてからは、友だちに聞いてもらいたいという意識も多くの子に芽生えてきました。そのころから子どもたちの「聞く」様子が相手の表情も見ながら言わんとすることを推しろうとする「聴く」姿勢に変わってきました。
そんな中での算数の授業でした。
83+49= という繰り上がりが2度出てくる筆算のやり方を考えるという授業です。
ブロック作戦とさくらんぼ作戦という2つのやり方について、そのどちらかをペアになって考えます。2人とも理解し説明し合えるようになった時を見計らって、もう一方のやり方の子たちに2人と力を合わせて説明していきます。
「え?どうして?」「わかんない、もう1度言って?」
「あのね、だからね…」
「あっ、そうか!」「なるほど、わかった!」
「ほかの説明の仕方もあるよ!」「聴きたいな。」
先生はその学び合いの時間を十分に準備していました。
その間、子どもたちはたっぷりと熱心にかかわり合いながら、それぞれのグループでの新たな課題や、共通の困りを解決していきました。
この授業で最も特徴的だったのは「教室に流れている空気が穏やか」だったことです。子どもたちが醸し出している空気が和やかだとも言えます。朗々と語る弁舌さわやかな発表もなく、先生と子どもとのめりはりあるやり取りもない。あるのは丁寧に友だちの言葉を聞き取ろうとする穏やかな子どもたちの語り合う声ばかりです。先生はうなずいたり、首を傾げたりしながら学び合いの様子を見守り続け、時折気になる子どもたちをさりげなくケアしていました。
授業の終わりに一人の子が「先生、繰り上がり2回の足し算があるなら、繰り下がり2回の引き算もあるよね。ぼく、早くやりたい!」とつぶやきました。それを聞いたほかの子たちからも「そうだね、やってみたいよね!」という声が上がりました。
前出の5年生の算数の授業とこの2年生の授業。
「一体何が違うのか。」という問いに対しての答えの一つは間違いなく、「聴く」ということ、さらに
「聴きあう関わり」を学級の中に根付かせることだと考えることができるでしょう。